2016小寒その2_3

いんちょのつぶやき・その1

東洋医学には「入門」できない

趣味と実益を兼ねて、太極拳をやっています。
太極拳を含め、お稽古事は「入門」する必要があります。
「門をくぐる」ことで、「その世界」へはいっていくわけですね。

太極拳でも、書道でも、ダンスでも、「かたち」から入ると、「門をくぐったのだなぁ」とわかりやすく実感できます。

鍼灸医学もおなじこと。
鍼灸の場合は国家試験をパスしないと、「お免除」はもらえません。
有資格者となれば、鍼灸医学を実践することはできます。
でも、鍼灸学校の「門」をくぐった時点で、「鍼灸師・入門」ってことになるのかと。
ただ、東洋医学の場合は、「門」が無いのではないかなと考えます。
ぼくなりの解釈で、広い意味で、ですが。

じつは「生まれた時から」東洋医学の門はくぐっていた

生まれた時から東洋医学の知恵や実践は、常に身のまわりにあります。
みんな気がつかないで、生まれた時から「東洋医学」に取り組んでいるのですね。

寒かったら、衣服を着ます。暑かったら、汗をかいて、衣服を脱ぎます。
お腹が減ったら食事をとります。そのとき、「あれがたべたい!これがたべたい!」という好みを言います。
食べすぎたと思えば、カラダを横にしてお腹をやすめます。
自分で調整する「カラダの知恵」が備わっているのですね。

天気との兼ね合いや体調の具合によって、日々のすごし方を工夫して過ごします。こうしたことは、すべて「東洋医学」だと常々思っています。

ただ、「知識を持って、言葉で解釈する・表現することができる」かどうかは、やはり「学びと詰め込み」が必要です。

こうした日常当たり前に行っていることに興味をもち、「学んでみよう」というところが、もしかしたら「東洋医学の『学び』の入門」になるのかもしれません。

「なぜ、人は汗をかくのか」とか「なぜ、これを食べたいのか」とか、「こんな症状のとき、これを食べるとよいのはなぜ?」という疑問に対する答えは、じつはすでにカラダはわかっていて、肌身で感じていることです。
言葉で説明されれば納得できてしまうのも、カラダですでに実感しているからです。

「東洋医学の知識」の使い方

「東洋医学の知識」は、「物事の道理」を「カラダ」を中心にして考え・解釈して、解説するということです。

こうした「知識の裏付け=東洋医学的なカラダの道理の解釈」をつかって、漢方薬や鍼灸術は、仕組みを組み立てていくわけですね。

ひろい・ひろい意味では、生まれながらに「東洋医学=カラダを中心にした物事の道理」を肌で感じて・カラダで理解して、あたりまえのようにカラダに不都合が無いように、人は暮らします。

そんな「あたりまえ」の暮らしがむずかしくなっている現代社会。
・つらくても、しごと
・具合が悪くても、やらなければいけないこと
・無理やりの労働、ほんとは眠いのに
などなど。

「カラダの理(ことわり)」から外れても修正できなかったり、感覚できず無視してしまう現代社会。

自らの力で「カラダの理」を取り戻せないからこそ、鍼灸の術や漢方薬の術が必要になります。

そして、鍼灸師である自分は、術を施すと同時に「カラダの理」を取り戻す解釈を言葉にそえて伝えます。

「東洋医学の門」を「入門しなおす」のではなく、「東洋医学の庭」にすでに住んでいるはずのひとたちに、自分の住処(すみか)と住まい方に「気がついてもらう」ために、「ふりむいてもらう」ために、東洋医学の解釈をふかめます。



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