2016立春その1_7

いんちょのつぶやき・その2

東洋医学の「気」は存在しない、ってことで。

物の見方、あれこれ

ものには、様々な見方があります。
どんな前提で物事を見るかで、理解は異なります。
前提によっては、「ことば」も異なります。

東洋医学という「ものの見方」があります。
おもに、ひとのカラダのことを見立てます。

検査器具や便利な道具の無い鍼灸師は、カラダのことを理解するために、様々な工夫をします。
自分の「五感」をつかい「専門的なことば」に変換して、理解したり、ことばにしたり、文書にします。

このときもちいる「専門的なことば」は、「その鍼灸師さん」にしか理解できませんし、必要としません。
同じ鍼灸師さん同士で、同じ専門用語をつかって会話をするにしても、
「自分の五感で感じとり、つむぎだしたことば」は、なんとなく共感することはできても、共有するまでには、お互いの「理解」が必要になります。


「東洋医学の専門用語は理解する努力が必要」

専門家同士でも、専門用語を理解し合うのには、それなりに努力を要します。ただし、こうしてたくさんの鍼灸師さんたちが、時間をかけて歴史をつくり、「ひとつのことば」をいじくりまわしてきたからこそ、現代の鍼灸師さんは、古くから使われてきた「ことば」を理解しやすくなっています。
※自分の立場や都合により、「ことば」を曲げて使えるくらい、「専門用語」は、多彩で柔軟な意味を持つようになったのも、長い歴史の功罪でしょうかねぇ。

「気」とは?

東洋医学の専門用語たちは、ひとのカラダを「東洋医学というフィルター」をとおして認識・表現・説明しやすくするために、「つくりだされたもの」です。
日常生活で用いる言葉や、内臓の名前なども登場しますが、じつは日常づかいの意味を持っていません。
※鍼灸学校在学中も、「日常」と「専門」の用語の混同で、混乱する学生さんもいるようです。

東洋医学で用いられる「気」や「経絡」や「ツボ」は、術を扱う便宜上、「ある」前提で語られ、書物に書き残されます。
でも、「気」も「経絡」も「ツボ」も、「日常づかい」では、存在しません。

説明を受けると「あるのかな?」と錯覚しますが、「気のせい(日常づかい)」です。

「経絡」や「ツボ」は、そもそも目で見えるわけはないので、「無い」というのはわかりやすいです。そもそも、「日常づかい」ではない「ことば」ですし。

「気」は日常の言葉でさまざまな使われ方をします。
・「気のせい」
なんとなく感じること、でしょうか。
・「気分」
ココロの持ち方ですね。
・「気配」
雰囲気、とかですかね。
・「気だるい」
「気」が「だるい」ということだとすると、「気=気分」を借りてきて、
「心持がだるい=だるく感じる」というところでしょうか。
・「気配り」
心配りとか、思いやり、という言葉に直せそうです。

「日常づかい」の「気」は、身のまわりやココロの感じ方に通じそうです。
それも、「ぼんやり感じること」に使われています。

東洋医学の書籍では、「気」は「物=存在する」という前提で書かれているものがあります。漢方薬をつかうとき、「消耗した(目減りした)「気」をおぎなう」なんて考えます。
鍼灸では、「経絡を循環する「気のめぐり」をうながす」なんて使い方をします。

日常では存在しないこうした「気」については、専門家(鍼灸師さん)が一般の人に説明するときに、とてもこまります。
以前は一般人だった「フツーの人」が、「専門家」になるときに、四苦八苦して学び・覚え・理解し・身につけてきた知識を、あらためて、専門知識のない人に伝えるのは、努力が必要です。

結局、「気」とは

「専門家(鍼灸師)」としてのぼくの、「フツーの人」につたえる「気」の説明は、「気=はたらき」です。
カラダの中では、さまざまな「変化」がおこっています。こうした「変化」を「自らの力でうがす作用」を「気=はたらき」とかんがえます。
「自らの力でコントロールできない変化」を「邪=外界の影響」と考えます。

ぼくのみつけた「専門家(鍼灸師)」が「フツーの人(専門知識を持たない人)」にむけての「気」の説明の仕方のおひろめでした。

ちょっと・ちょっとの思いつきまで。
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