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厄にまつわる作法 イイ・ヤシロ・チ㊷ 

初詣もひと段落の時期のイヤシロチ巡りとして、コロナ騒ぎの逸早くの鎮静を願い、どこかのイヤシロチにご挨拶に行くべし、と意気投合した五十路おみなコンビのわたくしと友人。

それでは、何処へ?と検索センサーをはたらかせ、次いで参りで申し訳ないけれど、お出かけ先からもう少し足を延ばしたところに坐す「日本最古の厄除けの霊地」と謳われる多井畑厄除八幡宮(たいのはたやくよけはちまんぐう)への参拝を決定した

ところで、改めて厄除けについてであるが、そもそも「厄」とはいったい何だろう?これまでの自分の曖昧な認識にハタと気づいた。やはりもう良いお年頃なのだから、きちんと定義づけて、厄とのかかわる折り屈みも知っておかねばなるまい。

↑のなかの、「人間の生命や生活の健全と安定をそこなう要因になると考えられている災難・障害に関する心意現象」(世界大百科事典第2版より)がわたくしにはしっくりと理解できるので、まずはこの定義を基本にしようと思う。

さらに、音からくる発問が生じて、カタカムナを長年探求する友人に「厄の音は、ヤとクだから、八と九なのかな?」と尋ねてみた。その子ども染みた問いかけにも関わらず、親切に応じてくれた回答は、「確かに八から九になる時は、ヤ(破)ぶれてしまうか、九(コ)十(ト)成って、次のステージのヒに進むかの岐路ではあると読み解くこともできる。」

ナルホド、厄は伸るか反るかの危うさを含んだ状況ともいえるのだろうが、其処を上手に乗りきると、新しいステージに進んでいけるというニュアンスも含んでいるのだな、と素人勝手ながらに理解した。その意味からすると、厄年という年齢の区切りは、人生の切り替えポイントともいえそうで、神仏の御力もお借りして安全にクリアしようとする考え方も成り立つと、合点がいく。

そして、災難、障害という意味での厄については、それをどのように扱うかという言葉にも主だった三つが思い浮かんでくる。厄祓い、厄除け、厄落とし。これらもこの際、くっきりと分けてみたい。そうして探すと、明快な解説が見つかった。↓

この度の御挨拶は、厄除けのお宮に伺うのだから、予防の意味合いが強いといえるか?それならば、災厄が寄ってきませんようにと、前厄に参じるのがよろしいのかもしれないと考えた。

五十路コンビにとって、射程に入ってきた還暦は目出度いことながらも、生まれ直しのある意味リスキーな厄なる区切り年とも言える。それならば、還暦前の厄除けは大事な作法かもしれない。兵庫県で有名なこの厄除八幡宮とのご縁に恵まれたのも好都合。このように考えさせて頂く機会を与えられるとは、まさしくお導きかもしれない。新年早々、このような参拝に伺える幸運に嬉しさいや増す。

アクセスは、最寄り駅のひとつ神戸市営地下鉄「名谷」からタクシーで向かうことにした。この日は新年の松の内でありながら、穏やかな晴天でまさしくお参り日和。ありがたい。

こんもりとした丘の上に立つ神社は、広い駐車場をいくつも有するのを見てとれば、地域民に慕われる人気のイヤシロチとわかる。

晴天の参拝嬉しくて、石段もなんのその

いそいそと石段を登っていくと、左手に細い脇道がある。その先がどうにも気になって、脇道を進んでみると、其処に小さなお社があった。どなたかはわからないけれど、きっとこの神域の大事な神様の一柱であろうから、とご挨拶。「初めてご挨拶に参りました、よろしくお願いいたします」

境内図に示されず、石段に向いてきちんとお祀りされている

元の石段に戻って、二の鳥居をくぐる。

かっこいい扁額

手水舎の場所に着いて、拝殿を臨む。あと一息だ。

手水で清めていよいよ参拝

綺麗に整えられた境内に、心が穏やかになってくるイヤシロチである。きらびやかな御神輿が展示され、ご神事がとても大切に執行されていると推察できる。拝殿でのご挨拶もそこそこに、左手の方に進む。横から本殿を見上げると、丁度太鼓の音が鳴り響いた。なんだか「よく来た」と言われたようで、にんまりと顔を見合わせるわたくしたち。参拝順路に従って、上方に進んでいく。

立派な御神輿は美術品のよう

その先には、「厄神祭塚」という聖処が待っていた。八幡宮の場所は多分古墳である。その天辺に当たる場所に、在る祭塚。此処におわすのはどなたなのだろうか?祟神を慰撫し宥めることで、その力を護りと祓いの力に変換してあずかる手法が此処に施されているのか、それとも此の地を統べる王が埋葬されているのか。ここにきて、左手からの陽光が何やら神々しくなってくる。

説明書きはこのようにあるけれど
手前の水鉢に人型を入れて厄除けを願う作法

厄神の囲みには、大樹の切り株か磐座が在るようだ。この空間は清まっており、禍事はすぐさまクリーンナップされていくだろうと思えた。多くの人の仔 が人型を浮かべて災厄からの守護を願う場所は、「此処に来ればもう大丈夫」と自然に思えるような、包容力と静けさが漂う何かしら安堵する空気に満ちていた。二人並んで参拝できる感謝と、本年の安寧の祈りを捧げる。

当初の目的も果たせて、気楽になったあとは、道なりに進んで本殿の裏手をぐるりと囲んでカーブする道をのんびりと歩く。野鳥の鳴き声ときらきらしい木漏れ日が頭上から心地よく降ってくる。すこぶる機嫌よく、傍らの小さな社にご挨拶しながら進んで拝殿前に出た。

賑わう建物エリアと対照的な癒やされる背後の杜エリア

清い空気の満ちた拝殿で一層丁寧に参拝をさせていただき、授与所へ。車の運転を始めたばかりの姪っ子への交通安全のお守りと、御朱印を授けていただくと、ミニファイルまでも、くださった。きれいな写真が載せられているこの素敵なおまけは、ご褒美感が大きくて、ほくほくの二人である。

大満足の参拝完了となり、石段を下りてホッとするわたくしの鼻孔を、香ばしい匂いがくすぐる。発生源はどちら?と目をやると門前に天然酵母のパン屋さん。足が勝手にお店に向かい、扉を開けた途端、素朴なイチヂクパンが、パチパチと小さな音を立てながら窯から出てきたところに遭遇した。もうこれは、直会お土産に決定するしかない。

こうして、温かな家族経営の味取(みどり)さんの焼きたてアツアツのパンを手に、帰路についた二人。帰路?岐路?その道のりも安全に厄のとりつくことの無いように、お陰様でしっかりと護られて帰宅できた。早速の霊験あらたかな厄除けの神さまに、大感謝である。

厄についての定義や向かい方も意識上にはっきりとのせることで、厄にまつわる作法も身に着けられる。これから迎えるであろう幾多の厄の岐路も、うまくいなして安全に次のステージに上がってゆけるように、と願うばかりだ。

藪椿の赤がつつましく気温を上げてくれる気がする冬日

最後までお読みくださり、ありがとうございます。和風慶雲。



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