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執着を手放すとは


「執着を手放しましょう!」
って、よく聞きませんか?

聞く割に、
『執着って何?』
『執着を"手放す"ってどうやるの?』
と、いう部分は曖昧な人、多くありませんか?

その辺、クリアにしていきましょう!



ですが、前提として、私は過去の怨みを手放しきれていない側面もあるし、執念深く
『あいつらのせいで………🔥』
と、怨みの念が再燃することも何度も繰り返しています。

私は"完全に"執着を断ち切ってるタイプとは少し違う存在であるという点を踏まえて読んで貰った方が、伝わるのではないかと思います。



以前、
「ネガティブなイメージが湧いてきても、いちいちその意識の相手をし続ける必要はありませんよ◎」
と、いう話を書きましたが、執着も同じです。

後で『執着心って何なの?』という点についても解説を書きますが、先に

「執着心が湧いてきたとしても、いちいちその執着心にフォーカスして、その感覚に浸り続ける必要はないんですよ◎」

という部分を理解してください。

まず自分で
『あ、今執着心に飲み込まれてたな。もっと別の方向に意識を向けなければ!』
と、いう風に、自分の意識が何に向いていたかを自覚して、意図的に意識を向け直すというスタンスになることがとても大切であるという点は押さえておいてください。



先日私は、
「一所懸命になることが大事だと気付いたんです!」
という話を書きました。

・執着すること
・一所懸命になること

この差は何なのか?

この点の説明をしていきます。

分かりやすいイメージで書くと、
「執着する。」
とは、
[結果に固執すること]

です。

「一所懸命になる。」
とは、
[結果がどうかは関係なく取り組むこと]

になります。



例えば私が
『編みぐるみを編んでみたい!』
と、願望を持ったとします。

その際、
『編みぐるみを上手に作れなければ、私はダメ人間だ……。』
というように、
『"結果が出なければ"取り組む意味がない!』
結果に拘っている状態
[結果に執着している]
と言えます。

もう少し言い換えると、結果が出るか出ないかという基準が、自分がダメ人間かそうでないかを決めるように想定していますよね。このことから、"結果"に依存している、とも言える訳です。

編みぐるみを編んでみようと取り組んだ際に
『とりあえず編んでみよう!話はそれからだ!』
と、"上手く"出来るか否かは度外視して、とにかく自分のできることを真剣に取り組んでみる状態が一所懸命ということになります。



別の例えも出しましょう。

何かしら商売をしていて、新しい商品の企画をしていたとします。
『この商品が売れなければ、この会社はダメだ…。』
などと、商品の売れ行き結果に依存しているのは、商品や結果、(売上の)お金に執着していることになります。

『こんな商品あったら嬉しいな、便利だな!絶対に良いものを仕上げてやる!』
などと、作ることに夢中になっているのは一所懸命ですよね。"良いものを仕上げる"と、言葉だけだと結果に執着してるみたいに感じるかもしれませんが、良いものを仕上げるために[創意工夫を楽しんでいる]状態ならば一所懸命なのです。



片思いをしていたとします。

『Xさんに、フラれたら、自分はもう終わりだ…。』
などと、相手の返答に自分の運命を委ねてしまっているのは、相手や恋愛に依存、執着していることになります。

『Xさん、大好き!今日も話せて幸せ!』
などと、片思いしている状態を満喫しているのは、相手に夢中なだけですね。



3パターン例を挙げてみましたが、これらの例で何となく[執着すること]と[一所懸命になること]の違いが伝わったのではないでしょうか。

執着心を持っている状態とは、結果など目に見える成果に拘り、自分の運命を委ねてしまっている、依存している状態のことです。

一所懸命な状態とは、行動そのものを楽しんだり、自分のその都度の感覚を大事にしたり、そのときの自分が出せる限りの能力を発揮することに重きを置いている状態のことです。



時間軸で表すなら、執着している状態は過去未来にフォーカスしているということで、一所懸命は今この瞬間にフォーカスしていることになります。

向けるエネルギー(フォーカスする意識のこと)が遠いか近いかという差が生まれているので、断然後者の方が注力しやすいということも伝わったのではないでしょうか。



先ほども書いた通り、私はたまに
『あの時○○じゃなければ…!』
などと、過去に意識が向いて怨みの念が湧いてくることがまだあります。

ですがその度に
『今!私は!□□している!』
と、に意識を向け直すことを繰り返しています。

こうして、過去に向いていた意識を過去から切り離すこと執着を手放すことになります。

同じように、未来の結果を予測して
『もし△△にならなければ私は終わりだ…。』
などと考えてしまった場合に
『今!私は!この工程に集中するぞ!』
と一所懸命に注力し直すのも、未来に向いていた意識を切り離して、今に繋ぎ直していることになります。



とても微妙な差なのですが、

・過去や未来に意識を向けることはブレーキを踏んでること
・今この瞬間に意識を向けることはアクセルを踏んでること

という風に表現すると、伝わるはずです。車の運転をしていて、アクセルを踏む際は必ずブレーキから足を離さないといけませんよね。

この、[ブレーキから足を離すこと]が、執着を手放すことになるのです。

決して、[アクセルを踏むこと]自体は執着を手放すことではないのです。



たまに、
「執着を手放すために☆☆すると良いですよ。」
といった形のアドバイスなんかもありますが、こういうときに["☆☆"すること]が重要なのではなく、執着していた事柄から[意識が離れること]が、執着を手放すことであるという点を捉えておく方が、執着の手放し方が上手くなるはずです。

私自身がそうなのですが、執念深かったり、拘ってしまいやすいタイプは特に、様々なもの、ことに執着を繰り返してしまいがちではないでしょうか。

執着を繰り返してしまいがちなタイプは、
『あ、また執着してしまった!』
と気付いたときに
『☆☆しなければ……。』
というように、結局また"☆☆"に執着してしまったりもするんですよね。

そんな、執着の連鎖を食い止めるために、[ブレーキから足を離すこと]が執着を手放すということであると、しっかり腑に落としておくことが大切なのです。



[執着すること]を[ブレーキを踏むこと]と例えたのにはもう1つポイントがあります。

今まで書いた通り、執着することとは、意識が過去や未来に逸れることです。

今、この瞬間、目の前のことを楽しめていないことになってしまう訳です。

この部分を例え話にするなら、お昼ご飯を食べながら
『今日の晩ご飯、何にしようかなぁ?』
と、考え続けているような状態になります。

折角今、この瞬間に美味しいお昼ご飯を食べているにも拘わらず、その匂いや味、食感などに集中して味わうことをせずに、ただただ食事を口に運ぶ機械と化しているようなものです。

これって、お昼ご飯を食べていることになると思いますか?はたしてその食事に満足できるでしょうか?そのお昼ご飯の献立に意義は生まれるのでしょうか?

この場合[ご飯を食べること]に執着しているだけで、食事を楽しめていないことになる訳ですが、食事を楽しめていないから満足できないことにも繋がりやすいですし、満足できないから食べることに執着してしまう…という負のループに陥りやすいという部分も伝わったと思います。

このように、今、この瞬間目の前の物事に注力しないことは、真の意味での"自分の人生"を歩めていないこととも同意義なのです。だから、アクセルを踏んで走ることができていない訳ですね。



執着を手放すとは、余計な部分に削がれてしまっているエネルギー(過去や未来に向いてしまっている意識のこと)を余計な部分から切り離すということです。

切り離すことが上手くなることで、疲労や苦悩から解放される場合も重々にしてあり得ます。

夢や希望、目標なんかが特に無いという人にとっても、執着を手放すことは思考や心、精神をクリアにするのに非常に役立ちますので、気になった人は意識してみてください。きっと、注力すべきものの片鱗が見え始めると思います。



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