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人間アンドロイド



{2023.01.24の記事}

今日は私の【幼少期の苦い記憶】を元にした話なので、若干ネガティブエネルギーが乗っているかもしれません!

『ネガティブエネルギーを受けたくない。』というタイミングの方は、時期を見てご覧ください。




 これは、私が3~4歳位の頃のエピソードです。

当時、父方の祖父母と両親と暮らしており、祖母だけが仕事をせずに家に在中していて、その他の家族は全員仕事に行っていました。

そんな状況だったので、基本的には祖母と関わる事が多かったのですが、ほとんど放ったらかされておりました。


たまに、祖母と買い物に行った先々などで、祖母の知り合いのおばちゃん(おばあちゃん?)にも出会います。

ところが、人見知りレベルハイパーだった私は、モジモジモジモジ…

挨拶ができない子供でした。


そんな私に祖母はいつも
「挨拶せんかいな…ほんまにこの子は人見知りで…。」
などと、祖母の知り合いに対して私サゲな発言をするのがお決まりの流れでした。

ある時、
「飴ちゃんあげよ(* ´ ▽ ` )ノ」
と、祖母の知り合いのおばちゃんが飴をくれました。

手のひらに乗せてもらうと、のど飴のスースーする飴でした。

(スースーするヤツいらねー…。)と私は思いながら、どう対応して良いか分からず、飴を見つめたまま黙っているとすかさず祖母に
「ありがとうって言わんかいな…ほんまにこの子は…。」
と、お決まりの私サゲの流れを始めます。

「知らんおばちゃんと話すの恥ずかしいからやんな( ^ω^ )」
と、私をフォローするおばちゃん、益々どう対応して良いか分からず首をかしげてモジモジするしかない私…。

と、まぁこんなシチュエーションの記憶です。


一昔前の(現代もそうなのかは、分かりませんが)田舎のばーさん達というのは、その場しのぎの会話しかしない印象があります。

知り合いに会えば、ただの条件反射
「こんにちは。」
と言い、何か貰えばありがたくなくても
「ありがとう。」
と言う。

こういう、大人同士のその場しのぎな応対の必要性が、当時の私には全く分からなかったんですよね。

[条件反射]や[とりあえず]で会話する大人達の神経が、怖いとさえ感じることもあったんです。


『どうして、興味も無い相手な癖に、会ったら挨拶するの?』
『どうして、要らない物を貰ってるのに、お礼を言うの?』
こういう部分が、本気で分からなかったんです。

大人に質問しても、
「こういう時は、こんにちはって言うの!」
「こういう時は、ありがとうって言うの!」
と、「シチュエーションに合わせてそのセリフを言うんだ」ということしか言われないので、[何で、セリフを言わなきゃいけないのか]超絶不思議に感じながら
『何となく、そういうものなのか…。』と、納得ができないまま流して生きてきたんですよね。

これを今読んでいる皆様も、忘れてるだけで私と同じように
『何で心にも思ってない社交辞令を言わなきゃいけないのか、分からない。』って悩んだ時期、あったんじゃないですか?

私だけでは…ないと思うのですが…。


現在、大人になった私、社交辞令もいけしゃあしゃあと捲し立てられるようになった私が、当時の私に説明してあげるなら、
「『元気良くご挨拶してくれたら、嬉しい』って感じる人が多いから、挨拶できた方が、沢山の人を喜ばせることができるんだよ◎」
「『飴ちゃんをあげたいな』って思ってくれた"気持ち"に対して、ありがとうって感謝するんだよ◎」
ってことを、3~4歳の私が分かるようにちゃんと噛み砕いて説明してあげられる程度には成長出来たと思います。

が、当時の私の周りには誰一人としてそういう、[挨拶や感謝することの大切さ]について、一生懸命説いてくれる人がいなかったんですよね………。

お陰様で、[無愛想×人見知り]が上手く治らず冗談抜きで二十歳過ぎまで苦労した点が節々にありました…。


[こういうシチュエーションではこう答える]
[こういうシチュエーションではこう言う]
そんな、セオリーでの言葉の使い方を覚えたものだから、良い子ぶるというか、取り繕うことは一応できるものの、
本心はそうじゃないっていう、このモヤモヤの行き場所が無い…。』ってことで、落としどころが見付からずに、高校生位の年頃は無駄に疲労していた記憶があります。
↑私個人的には、こういう性質があるから、『私ってちょっと発達っぽいな…。』って余計に悩みが肥大したりして、過去はマジで苦しかったんですよね。

その辺の苦しい悩みのループから抜け出せて、本当に良かったと、今では思います。


話を戻しまして、私の祖母は本当にシチュエーションに合わせた言葉しか言わないような人でした。(私の記憶では。)

考えて物を言っていないというか、本心が全く見えないような人だった…というか、とにかく、
『このばーさん、心入ってるんか…?』って、何となく感じるような人でした。

まぁ、私の家族って、全員人間の心が入ってないように私は感じてるんですけどね。

その中でも特に、祖母が一番心が見えない人っていう印象がありました。

そんな祖母だったので、私が高校生位の頃に痴呆になり、施設に入る…等を経て現在はもうこの世にはおりません。

私は高校を卒業後、実家から離れていたので、当時の祖母の様子等はあまり詳しくは知りませんが暴れたり徘徊する…のような行動は一切無く、ほとんど何も話さない、何もしない…

たまーに私が祖母に会っても、目が合うだけで何の反応もない人になっていたので、
『この人、本当に心が無かったんじゃないか…?』と、私の目には写っていたんですよね。


ただ、私の幼い頃の記憶では、祖母は本っ当に[外面だけは取り繕ってた]印象が強いんです。

挨拶ができない私に対して、躾なんて一切してない癖に
躾てるのにできないんだからこの子は…!」
みたいな言い方をする人だったんですよ。


サザエさんの世界でも、
「うちの愚妻がうんたらかんたら…。」
って言う回を見たことがあるので、かつての日本のカルチャーとして、そういう身内サゲするのが普通、当たり前だったんだろうとは思いますが、私は祖母に私サゲされてたことも良く思っていませんので、祖母に対して、ちょっとトゲのある書き方になっているかもしれません。

こんな、私個人的には思い出したくもない思い出を何故突然思い出したのか分かりませんが、私が経験した苦い思いと似たような苦い経験を大なり小なり、多くの人が越えてきてるんじゃないかと思います。

あまりにも子供の頃過ぎて、覚えてないという人の方が多いとは思いますが、私のこの話を読むことで[ありのままの自分]を思い出すきっかけにできる人がいるかもしれないと思い、ちょっと書いてみました。

何なら、日本人の魂に乗っかっている身内サゲにまつわる重いカルマを少し軽くできるのかもしれない、そういう思いもあります。


さて、3~4歳の頃の私、当時は言葉も知らないし、上手く言い表せなかったのですが、
『どうして挨拶するのか?』
『どうしてお礼を言うのか?』
私が納得できるような説明を一切してくれない癖に他人のおばちゃんに対していかにも
私は躾してるんですけどね…?」
っていう態度を取る祖母に対して、モヤッとしてたし、その上
「この孫は本当にダメな子で…。」
みたいな言い方されるのが、イラッとしてたんですよね。

『いやいやいやいや、挨拶とお礼の必要性、ちゃんと私が納得できるような教え方してから言えよ!』って気分だったんですよね。

そういう難しい思いを言い表せないモヤモヤ含め、色んな気持ちを一気に思い出した…
っていう話なんです。

こういう、理不尽な経験、皆さんも少なからずありませんか???


「私は教えてるんですけど、この子ができなくて、ご迷惑おかけします…。」
みたいな言い方されながらも
『教えられてませんけど。』
『何故私が悪いみたいな言い方されなきゃいけないんですか。』

みたいなシチュエーション…。

これを、子供の頃にしょっちゅう家族等から言われ続けて大人になると、職場でも頻繁に[勝手に自分のせいにされる]経験をしたりしてしまうんですよ。

最悪じゃないですか。

しかも
「私は教えてるんですけどね……。」
とか言う側の人は
『とりあえずそういう言い方で取り繕っとけば自分は悪者にならないよね☆ミ』位しか考えてないことがほとんどなんです…。

理不尽が過ぎません?


こういう理不尽な思いをせずに済むようになるには、
「教えて貰ってない!」
っていう訴えだったり、
「何で悪者にされなきゃいけないの?!」
っていう怒りモヤモヤだったりをちゃんと思い出して感じきってあげて、子供の頃や過去に感じた負の感情をまず消化してあげることが大切です◎

自分自身で過去の自分に対して、
『教えて貰ってないからできないだけなのに、ダメな子扱いされて、嫌だったよね…。』などと、理解を示してあげることで、[不完全燃焼だった自分の心が引き起こしていた]、理不尽な経験を食い止められるようになるのです。


これまでにもちょこちょこ
「日本人はじゃなくて、シチュエーションに合わせた会話しかしない。」
という話を書いてきてましたが、私の家族が特にそういう会話ばかりだったことで、私自身がそう感じる経験が多かったのかもしれません…。

他の皆様がどう感じているかは分かりませんが、私はとにかく
『日本人って、その場に適した言葉を選ぶことが一番大切で、平気で自他両方の心をガン無視した会話するよね…。』と強く強く感じながら生きてきました。

だから、私は
『日本人とアンドロイドって近しいよな…。』って思いながら生きてきたし、もはや
『私もアンドロイドになりたい。』と思ってたんですよ。


[こういう場面ではこう答える]
[こういうシチュエーションではこう言い回す]
っていうある程度の正解パターンが自分の中に積み上がっているので、
『心が無くなってくれた方が楽に生きれるんだろうな…。』って真剣に考えてたんです。

しかも、私の家族を見てるので
『自分で考えない(正解パターンの言い回しばかりする)方が楽だよな…。』
『自分の心<シチュエーションに合わせた正解で選んだ方が簡単だよね…。』
っていうことも分かっていたので、それでもなお[折り合いをつけられない自分の心]を持ってるのが苦しくて苦しくて嫌だったんですよね。

心を捨てたかったんです。



アンガーマネジメントなど、自分の感情コントロールもある程度出来るようになってたので、
『アンドロイドになれないこともないんじゃないか…?』って真面目に考えてました。

スピ界隈でよく、
「二極化がどうのこうの…。」
って騒がれたりもしてましたが、私にとって、
●自分がアンドロイドになる道
●自分のスピリットで生きる道 
どちらを選ぶのか…って局面だったな、と、今思い返せばガチで分岐点だったような気がします。

そして、私はスピリットを選んだみたいです。

そりゃそーだよね…昔から出る杭として打たれ続けてきた私が、アンドロイドとして大人しくできるような人間だったらここまで苦労しなかったもんね… 。


正直、本当にアンドロイドになってしまえた方が楽なんだろうと思います。

いちいち迷ったり苦しまなくて済みますからね。

でもそれって、本当に生きてるって言えるんでしょうか。

私には、よく分かりません。

とりあえず、私はメンタルアンデッドにはなれそうもありません。

だから、これからは堂々と心ときめく選択を続けていけますように。

これ以上メンタルアンデッドたちに人生を邪魔されませんように。

自由な世界に、心を開けますように。

人間に戻れる日が1日でも早く訪れますように。


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