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本物の言葉と綺麗事



{2023.10.19の記事}
お久しぶりです。

今日の内容は人によっては
『重い』
と感じるかもしれません。

『何か違うな?』と感じたらすぐに読むのを止めてくださいね。

念のため先に伝えておきます。
※私は病んでません。

 

最近、良くも悪くも
『何事にも興味が無い。』という状態が続いています。

何事にも興味が無いは言い過ぎかもしれないですが、
『どうでも良い。』という感覚が強く、綺麗事のような表現をすれば
[様々なことに対して執着が無くなった]
ということでもあり、もっとリアリティのある言葉で言えば
[気力が無い]
に近いです。

ただし、それは別に病んでるとかそういうことではなく、マイナスでもプラスでもないところでただただ日々が流れていっているような感覚だけが最近の私の状態なんです。

そんな、ぐでたまみたいになってる私に久々に湧いた
『何で私はこんなに不幸なん!?』という気持ちについて、深掘りする話を書きます。


『何で私はこんなに不幸なん!?』という表現はちょっと間違いで、正確に表現するなら
『何で私には幸福が訪れんのや?!』がベストでしょう。

私って、今までの人生で
『生きてて良かったー!』って感じる経験をしたことが無いんです。

今となっては
『今までにそういう経験が無かったから、これからそういう経験に出会える可能性が高いんやー!』と思うようにもなってきたのですが、これまでの私は
『私には幸福なんて縁が無いんだ。』という意識が強かったです。

その辺の気持ちについて、ブログでちゃんと書いたことが無かった気がするので、一回書いてみようと思いました。


私は産まれてから今まで
「産まれてきてくれてありがとう!」
「生きててくれてありがとう!」
と人から言われたことがありません。

どこかのブログで触れましたが、私の両親は
『○○歳なのだから結婚しなくては…』
『結婚したんだから子供を産まなくては…』
という風な世間体の意識が強く、
自分達の深い部分の本音と真っ向から向き合って結婚→出産を経たタイプ
ではありません。

だから私のことを
【私個人】
としてではなく
【自分たちの子供】
としてしか見ないままに育てている様子でした。

祖父母もいましたが、
【私個人】
としてではなく
【自分たちの孫】
という存在としてしか認識されていませんでした。

だから私の家族は、私の考え方や性格、得意なこと…何も知りません。

何も観て貰えない、分かって貰えない
という状況下で大人になりました。


たまに
「あんたはXXだから…」
「あんたの性格はYYだから…」
などと言われることもあったので
『私ってXXなんだ…。』
『私ってYYなんだ…。』
と思ったことも沢山ありましたが、それは家族が私のことをしっかり見ていたのではなく、私に写った自分自身の姿を見ていただけでした。

これは私が大人になってから気付いたことですが全ての家族が、私を介して、私に写った自分自身の性質を見ていただけで、私の本質は誰にも観て貰ったことがありません。

私の家族の元に訪れる子供は
私である必要が無かった

という家庭に私は産まれてしまいました。


そんな感じのまま育ったので、 私は自分への存在意義を見出せずに長い間過ごしてきたし、うっすらと
『別にこの家に産まれてくるのは私じゃなくて良かったじゃん。』
『私じゃない子供の方が良かったんじゃ…。』
『私は産まれてくるべきでは無かったんだろうな。』
という無意識が私の中にしっかりあります。

その無意識から、自分を大事にできなかったり、自分を蔑ろにしたり、生きることへの虚無感が常に側にあったんです。

その頃の私の世界観として、
この世には
【存在して良いもの】

【存在してはいけないもの】
がある

と思っていて、
『私は存在するはずじゃなかった側のものなのに、間違いでこの世に産まれてきたんだ。』という感覚でした。

この通り具体的に言語化できていた訳ではなく、うっすらとそんな感覚だったのです。


先に弁明しておくと、今となっては
「この世に存在する全てのものは必要なものである。」
「この世には存在するべくして全てのものが存在している。」
といった価値観も理解できるし、

「存在することに良いも悪いも無い、ただここにあるだけなんだ。」

と、いう世界観に落ち着いています。

ただ、かつては
『私が産まれてくるべきではなかった。』という感覚が強く、今でもたまに
『産まれて来なければ良かった。』という気持ちになります。


最近はかなり減りましたが、以前は
『死にたい。』と思うこともしょっちゅうあって、そういう気持ちになる根源の意識が
『私が産まれてくるべきではなかった。』という感覚でした。

『別にこの家に産まれてくるのは私じゃなくて良かったじゃん。』
この意識が物凄い影響力を持っていたのです。


こういう感覚が備わった要因は色々ありますが、私の家族は基本的に自分軸の人ばかりなので、
私の目線に立って、私の考えや気持ちに寄り添う
ということを全くしてくれたことがありません。

学校などでは
「他の人の気持ちに寄り添えるようになりましょう。」
のようなことを教えられたりもするのに、私は家族から寄り添って貰ったことが無かったのです。

他の人の気持ちに寄り添えることが正解
→なのに、私の気持ちに寄り添って貰えない
→それは私が要らない子だからだ

こんな感覚に陥っていました。


家族の中にいると
『ナチュラルに無視されている。』と感じる場面も多く、本当にしんどかったです。

表面的な会話はちゃんとしていても、誰も深い興味関心を持ってくれない、私の言い分を理解しようと頭を働かせてくれない、そんな環境下で、いわば万年カサンドラ症候群のような状態になっていたのでしょう。

私の気持ちには一切寄り添ってくれないのに
「何でお母さんの気持ち分かってくれないの?!」
と責められ続け、父は母の肩を持ち一方的に親(特に母)の意見ばかりを押し付けられることが多く、私の精神は本当に歪んでいたと思います。


前にも書きましたが、母は父の好きな食べ物を優先し、嫌いな食べ物は全て把握、出さないようにしますが、私の好きな食べ物も嫌いな食べ物も覚えてくれませんでした。

私が何度
「嫌だ。」
と言っても、私が嫌いなおかずしか食卓にない日もありました。

「好き嫌い無く、ちゃんと食べなさい。」
という躾ではなく、ナチュラルに私の言葉を無視されていたのでそれがとてもしんどかったです。


「誰も私の訴えを聞いてくれない。」
という無意識の感覚が、強く強く染み付いていました。

先程も書いたように、家族みんな、表面的な会話はしてくれるので
『無視されている。』という直接的な感覚ではなかったのですが、
何となく避けられてる気がする…。』という感覚に近く、その割に従兄弟や他の子供などを
「可愛い!可愛い!」
と言ってその子たちの訴えや言葉をしっかり聞いている姿も何度も見ていたため、本気で
『あぁ、産まれてくるべきは私じゃなかったんだな。』と腑に落ちる位しっかり心に刻まれていたのです。


毒親育ちのパターンの1つとして、
『"自分が愛されていない"ということを認めたくない、認められない!』
だから拗らせてしまう
というタイプも結構多いと思います。

ところが私の場合は、
『あぁ、私は愛されていないんだな。』
腑に落ちてしまったが故の拗らせ方に陥っていました。

だから
『どうして私は産まれてくるべきじゃなかったのに産まれてきてしまったんだろう…?』という悩みに蝕まれることが多かったです。


『自分は生きているべき存在じゃないはずなのに、何故生きていなきゃいけないんだ?』というどうしようもない葛藤をよく繰り返していました。

この感覚って、
【自己肯定感ゼロ】
以前に、
【"自分を肯定して良い"という概念が無い
っていう状態だったんです。

改めて考えてみると
『よく今まで生きてきたな!』って思います。


因みに、前回の記事の最後に
「可愛いという言葉は愛されることを許可するという言葉」
だと書きましたが、私は幼少期に自分自身で
『可愛くねぇ~………!』と、

[自分で自分が愛されない呪いをかけた]

という側面もあるんです。

私が愛されない人生だったのは、自分自身の呪いのせいでもあったんだとつい先月位に気付きました。

まぁ、私だけのせいでもないんですけどね。


だから、皆様は
「自分は可愛い!」
と、ちゃんと伝えましょうね。


私の母は他の家族が誰も見ていないところで私に対して精神的な細かい嫌がらせをよくしていました。

身体的な暴力は一切無いので証拠も残らない上に、狡猾な嫌がらせだったので、本当に他の誰にも助けを求められませんでした。

現代では
【マニピュレーター】

【ガスライティング】
などという言葉や概念も誕生していますが、私が子供の頃はそんな概念なども無く、誰にどう訴えようと
[母親が悪者である]
ということを証明できない嫌がらせ
ばかりを受けていたので、ただただ大人である母親の狡猾ないじめを我慢するしかありませんでした。

小学校低学年の娘をいじめてニヤニヤ楽しんでいる母親の元で
『自分はどう立ち回るべきなのか』本当に混乱していました。

ただ、不幸中の幸いというか…
恐らく母親の方が私より頭が悪いようで、小学校高学年頃になってくると狡猾な嫌がらせを上手くかわしたり、気にしなくて済むようになれたので、まぁ何とか正気を保てていたような気がします。


大人になった私が改めて母を見ていると支配欲の塊のような人間で、色んな人を自分のコントロール下に置いておきたいタイプなのだと思います。

その癖極度の臆病だったり、そうかと思えばプライドが高かったり、一言で言えば面倒な人でした。

・言い訳
・責任転嫁
・論点ずらし
・被害者面
・いじめ
がとにかく上手く、子供時代の私では太刀打ちできませんでした。

そして父はまんまと母の表面的な善良ぶる姿に完全に騙されきっていました。

騙されきっていたというか、マインドコントロールに近かったのかもしれません。

かくいう私自身も母の巧妙な手口によってマインドコントロールされていた部分も多く、毎度毎度被害者ぶられ、私が悪者扱いされることに対し
『産まれるべきじゃなかった自分のせいだからなんだ…。』という風な意識も水面下で育まれていました。


マニピュレーターの質が悪いところは、
「あなたの為を思って…。」
など、一見"善意"かのように見せ掛けた言い回しや行動を仕掛けてくるところです。

「お風呂湧いたから、先に入って良いよ~」

言葉だけ見れば優しそうな表現ですが、この言葉の水面下には
『私が指示したことによって相手を動かしたい。』という支配欲求が潜んでおり、
「今入りたくない。」
と返しただけでもヒステリックに怒り出したりします。

そして、
「私が折角あなたの為に一番風呂を譲ってあげようと思ったのに…。」
という雰囲気を出してくるので、父親が母親の肩を持つ流れになるのです。

今になって冷静に思い返してみれば、恐らく母自身も自分の深層心理の支配欲求に気付けておらず、本気で"相手への善意で自分は動いている"と勘違いしていたり、父や祖父母の分からないところで私に嫌がらせをしているときの"嫌な人間性"を自覚していなかったのだと思います。


極端に臆病な人間(しかも、特にスターシードや宇宙的な感覚が強いタイプ)というのは
【自分の中に醜い人間性が存在している】
という事実を受け止めきれない人
が多いので自分の行動を客観視できないことが多々あります。

だから、母も本気で
『娘が一方的に悪い!』としか見えていなかったのかもしれません。

私が鈍感で何も考えないようなタイプだったなら、あんなに辛いと感じることも無かったのでしょうが、感受性が強いエンパス体質によって相手の深層心理に敏感だったせいで、【母の悪意】をもろに感じ取っていたため、子供の頃は辛かったです。


母はポジティブ系の名言なども好きで私がブチギレたり落ち込んでいると
【明けない夜は無い】
などの一言が入った絵や写真などをリビングによく飾ります。

しかし、私からすれば
『お前が私を地獄に蹴落としとんねん!』という話でした。

自分の心の闇としっかり向き合って、自分のメンタルを改善させようとしない、何なら自分の異常さに気付けてすらいない母は精神の闇に落ちたことは無い訳です。

そんな人間に
「明けない夜は無い。」
を語る資格など無いのだと、
私は大声で叫びたかったです。

しかし、自分の異常さを自覚できない人間には
自分には「明けない夜は無い」と語る資格が無い
という理論も通じないのも分かっていました。

だから、私の気持ちには行き場がありませんでした。

だから私は
【名言】
って嫌いなんですよね。


私は
【あっさい解釈の綺麗事を述べる人間】

【真理を理解した上で言葉を紡げる人間】
せめてこの2パターンを見抜ける人が増えることを祈って、今日この話を書いてみました。


マニピュレーターやガスライティングと呼ばれるような人間のやり口は本当に姑息で狡猾です。

あの"目に見えない悪意"はこの世から消えるべきだと私は思います。

そのきっかけの1つになることを願っています。

精神的な嫌がらせに苦しむ人が1人でもいなくなりますように。

素晴らしい、美しい言葉がこれ以上悪意で汚されませんように。

愛されることを許せる人が1人でも増えますように。


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