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PASSION ブラジルの野球の場「ヤクルト」

第2回ヤクルト杯少年野球大会

 ブラジルで野球大会が行われるとの情報をくれたのは、ブラジルの邦字新聞・ニッケイ新聞の記者である大浦さんである。大浦さんは大会を取材するとのことで、私も同行させてもらった。
 車でサンパウロ市内を抜けて一時間半後、田園風景のなかに「C.T Beisbol Yaklut」と書かれた看板があった。道を折れて坂道を上がる。少年に門の鍵を開けてもらい、中へ。
 ヤクルト野球アカデミーは、日本やアメリカでプレーすることを希望する選手を育成するために、日系企業のヤクルト商工による援助で2000年に設立された。


 2面に分かれたグラウンドではすでに試合が始まっていて、観戦者の姿もたくさんあった。少年の部は11歳から12歳までの12チームが、準青年の部は13歳から14歳までの8チームが参加している。第2回ヤクルト杯少年野球大会である。
 メイン球場には電光掲示板と銀傘のついた屋根があり、室内練習場も併設されていた。私がこれまで訪ねた南米の野球場では一番立派なグラウンドだ。移住地にあるグラウンドでのスコアボードは「S・B・O」の順だったが、ここはアメリカ式の「B・S・O」だった。
グラウンドの周りを緑と黄色、白と赤の旗が囲んでいる。ブラジルと日本を意識しての配色であろう。
 「お昼ができているから食べていって」
 アカデミーの校長である佐藤允禧先生(64)が声をかけてくれた。私は佐藤先生にメールを送り、近々のアカデミー訪問を依頼しておいたのだ。先生は私に「またいつでもいらっしゃい」と言ってくれた。


 昼食時、コーチを務めるカルデーラ・チアゴ君を先生は紹介してくれた。
 チアゴ…聞いたことがある名前だ。
 「出身はどちらですか?」
 「山形の羽黒高校です」
 思い出した。甲子園で活躍したことのある選手である。2003年の夏、羽黒高校の甲子園初出場に大きく貢献した選手で、卒業後は栃木県にある白鴎大学の野球部に所属して、キャプテンも務めた。彼が堪能な日本語で話を聞かせてくれる。


 1984年、日系人が多く住むバストスで生まれた。チアゴ君は非日系人だが、父の友人には野球をやる日系人が多かったという。それが彼自身の野球を始めるきっかけになった。7歳で野球を始め、14歳のときにヤクルト野球アカデミーへ入学したのち、羽黒高校に入学した。
 「日本語は日本に行って覚えました。わからなかったら辞書を引いて。寮生活は厳しいと聞いていました。殴られるとか色んな噂があって…。辛い生活を覚悟していたのに、まったくそんなことはなかったんです。むしろ3年生と仲が良かった。
練習はもちろん厳しかったですよ。ブラジルと練習の仕方が違うから。僕はピッチャーなのにバントの練習をさせられた。なんでだろうって思いました」
 チアゴ君は高校入学前に、ブラジル代表として日本の土を踏んでいた。東京ドームと大阪ドームでプレーをしたが、
 「甲子園の雰囲気が一番良かったです。甲子園に出場したら日本に来てくれると両親と約束をしていて、それが果たせた。僕たちの試合があった日は、地元のPL学園の試合もあって甲子園は満員でした。でも、緊張はしなくて楽しかったです!」
 懐かしそうに当時を振り返り、最後にこう言ってくれた。
 「日本が大好きです」
 現在彼は、平日はピッチャーコーチとしてアカデミーで勤め、休日はイビウナーチームの監督を務めている。

 ヤクルト野球アカデミーでの2日間~佐藤先生の人格の厚さ~

 帰国まであと5日に迫った3月3日、私は再びアカデミーへ向かっていた。バハフンダバスターミナルからイビウナ市行きのバスに乗って2時間後、アカデミーに入る入口近くでバスを降りた。
 坂道を登って門へ。門番の小屋はカーテンが閉まっていて誰もいない。カギが閉まっていたら入れない。
 ワン、ワン、ワン!!!
 けたたましい犬の鳴き声に恐怖を覚えた。番犬がいたのである。門は飛び越えられる高さではなく、周辺を歩いて中に入る方法を探るが、柵がしっかりと張り巡らされていて、門以外から入るのは不可能だった。不法侵入者にもなりたくない。
 公衆電話が近くには見当たらず、佐藤先生に電話もできない。誰かが来るのを待つしかない。途方に暮れていた。
 「乗って~!」
 10分後、車が一台現れて、門の鍵を開けてくれた。アカデミーで働く日系人。食堂に案内され、ミエさんという日本語が話せる女性を呼んでくれた。
ミエさんはアマゾンのベレン近郊で日本人の両親のもとに生まれた二世である。子どもに会いに、ベレンからやって来た。
 アカデミー生の平日は寮生活で、週末は地元に帰って親と過ごすこともできるのだが、ミエさんの子どものように遠方から来ていると、すぐに地元に帰れない。アカデミーには来客用の宿泊棟もあるようで、食事づくりなどの手伝いをしながら、子どもとの再会を楽しむようだ。
 さきほど門を開けてくれた男性はバスの運転手だった。学校へ行っている生徒たちを迎えに行った。

 月曜日から金曜日までは朝7時20分にバスで通学して授業を受ける。授業は午前中だけなので、アカデミーに戻ると全員で昼食をとり、14時半から野球の練習。夕食後は自主練習や学校の宿題をこなす。練習休みは金曜日で、金曜日に地元へ戻り、週末は各地のクラブチームで試合をこなす。
これが、生徒たちの一週間のスケジュールだ。
現在は40人ほどが在籍していて、13歳から20歳くらいまでの少年・青年が寮生活を送っている。ほとんどがサンパウロ州出身で、日系人の多いパラナ州、エミさんの息子のようなアマゾン出身者も何人かいる。国外ではエクアドル出身者が2人。毎年12月にセレクションをやり入学者が決まる。
 校長は佐藤先生。コーチには先日会ったチアゴ君のほか、ドミニカやキューバ出身のメジャーリーグからの派遣コーチが数人いて、生徒たちに野球技術を教え込んでいる。

 14時半、グラウンドに横一列に並んだ生徒たち。佐藤先生がポルトガル語で練習前のミーティングをする。
 先生とコーチ、グラウンドに向かって
 「オネガイシマース!」
 二度、生徒たちは一礼して、練習を始めた。

 夜、アカデミー内にある先生の自宅へ行くとチアゴ君や他のコーチが集合していた。
「座って、座って」
 先生の奥さんが夕食を作ってくれていたのである。
チアゴ君は茶碗にもられた白米の上にたまごを勢いよくぶっかけた。しょう油をかけてよく混ぜて、それを箸で食べているのだ。
 “たまごかけごはん”が好物だそうで、箸使いはお手のもの。その光景がおかしくて、嬉しい。
 自作の履歴書とともに、佐藤先生が話を聞かせてくれた。

 佐藤先生は1946年、愛知県岡崎市に生まれ、57年9月に家族と共にボリビアのサンファン移住地に入植した。サンファン移住地で開拓が始まってまだ2年目のことである。原生林のなかで生活した。
 1960年にサンファンからブラジルへ転住した佐藤先生。サンパウロから鉄道で370キロ離れたバウルーというまちだ。バウルーは当時走っていたノロエステ鉄道の起点となっている場所で、ノロエステ沿線には日本人移民であふれていた。ユバ農場のあるアリアンサもノロエステ沿線上に位置していた。バウルーを起点として野球も盛んに行われていたことになる。
 「僕のふくらはぎをさわってごらん」
 先生がジャージをめくった。私は先生の足に触れる。
 「すご…」
 先生のふくらはぎはムッツリ固く膨れている。筋肉の固まりだ。絞り、鍛えた体があった。
 サンファン移住地では馬に乗って通学していた。ブラジルでは片道数十キロの道を徒歩で通っていたという。原生林を裸足で歩いていたのである。
 「原始林を歩くと感覚が敏感になるんだよ。馬に乗るにはバランス感覚が必要でしょ。斧で大木を切り倒すコツは腰の高さ。僕はサウスポーだけど、斧は片刀なうえ、右手でしか使えないようになっている。移民としての生活をしているうちに、野球をするのに必要な体がつくられていったんだよ」
 バウルーに移住して野球を始めた。入植して4年目にはすでにその野球能力が認められ、野球チームのある南伯農産組合に就職した。
 1965年に全伯選抜大会で優勝したとき、最優秀投手を受賞する。佐藤先生の野球人生はここから輝きを放っていく。日伯毎日新聞やJORNAL PAULISTA、サンパウロ新聞には先生の「快投」をたたえる記事が山ほどある。
野球をやるためにブラジルに移住する“野球移民”が登場した66年、野球移民を受け入れる豊和工業に転職した。15年間勤めたなかで、南米大会ではチームを3回連続で優勝に導き、いずれも優秀投手に選ばれた。
 1974年には豊和チームの監督に就任し、83年ブラジルナショナルチームの監督としてパンアメリカン大会に参加。92年、98年には日本高野連の招待によりブラジルナショナルチームを率いた。
  2007年のパンアメリカン大会で監督を勇退、世界野球連盟のテクニカルコミッショナーに就任した。
 先生が「履歴書」を見せてくれた。
「私の野球との出会いは、1962年豊和工業が日本から野球経験者10名を移住させ、ブラジル野球の活性化を図り、ラジオで野球の実況放送を聞いて感動した時です。この時期、我が家は貧困のどん底にあり、とても野球道具を買う余裕はありませんでした。私がやったことは、毎朝5時に起床し一人で坂道を走ることと夕方仕事が終わってからシャドウピッチングを日々300回繰り返すことです。このトレーニングを2年間続け、1964年度、準青年地方予選で前年度全伯優勝チームを相手に24個の三振を奪いました。このゲームを観戦していたサンパウロチームの関係者に認められ、南伯農産組合に就職し、本格的に野球をやるようになりました。2年間南伯農産組合チームでプレーし、さらなる飛躍を目指し、1966年10月に当時社会人野球のトップに君臨していた豊和工業に転職し約15年間プレーしました。
 私の野球人生のなかで一番の幸せは世界中に友人が出来たことです。
 我が人生に悔いなしです」
 こう締めくくられている。
 先生のオーラはあたたかく、人格は厚い。
 
先生は23時ころ就寝したが、私とチアゴくんらは先生の自宅でそのまま二次会へ。ビールの缶がシュパシュパと空いていく。笑い声も重なっていく。
深夜1時すぎまで飲んでいた。

 翌朝8時に食堂へ。
「ボン・ジーア!」(おはよう!)
 ミエさんと抱き合って、ブラジル式の挨拶を交わす。
私はサンパウロへ戻らなければならない。8時半にイビウナのバスターミナルを出発するバスに乗ることにした。ミエさんとブラジル人女性がバス停まで送ってくれることになった。入口まで送ってもらえただけでも嬉しいのに、バスが来るまで一緒に待っていてくれる。
 「ボア・ビアージェン!!」(良い旅を)
 “ありがとう”を伴う別れはいつも切ない。

 ブラジルの“深み”。
 791人を乗せた移民船・笠戸丸がブラジルのサントス港に到着したのは1908年6月18日。ここから日本人のブラジル移民の歴史は始まった。
 「さぁ、行こう 一家をあげて ブラジルへ」
 政府も移民斡旋会社も誇大広告で移民を募った。
 「1日1円20銭稼げます!」
 小学校教員の初任給が12円前後、銀行員が35円と言われていた時代である。コーヒーは金の成る木だと言われていた。多くの日本人が一攫千金の夢を抱いて、悠々と海を渡った。
 ブラジルに着くと、移民たちは契約を結んだコーヒー農園に次々と散らばっていった。しかしそこにあったのは契約とは全く異なる劣悪な環境、低賃金。お金を貯めるなど到底できない。負債を負わなければ生きていけない環境だった。
 そこから100年。
 南米一の広さを誇るこの国で、私が触れたのはほんの“かすり”でしかない。戦前・戦後で25万人の日本人がブラジルに渡った。ブラジルにいる日系人は150万人とも言われているのだ。
 その数だけドラマがある。人生模様、歴史がある。

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