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だから『介護3.0』でいこう。

確信

 高齢者施設で介護の仕事を始めて早10か月が経った。最初はすべてにドギマギしていたけれど、オムツ交換、食事介助、入浴介助など、一通りのことはだいぶできるようになったと思う。一方で、渦巻く思いが常にある。

 縦型導線の施設で、入居者さんたちが寛げるスペースがほとんどない。さらにスタッフが「徘徊」「尿汚染」「慰問」など、カタい名詞ばかりで状況を表現することが多い場では、お年寄りはHappyになれないのでは?と感じてきた。いろんな経験を積み、長年生きてきた人たちの最期の生活、これでいいの?「いや、いかんやろ」って。
自分だったらそこで暮らしたいと思える?

 答えは NO.

 でも現実はー。
 
 時間いっぱい目の前のお年寄りに日々懸命に接してはいるけれど、「忙しい」「人が足りなくて」と淡々と“業務”をしているのが素直なところ。「ホントは…」と疑問を抱えながらも看過してきてしまった。
 日本中のヘルプマンが持っているはずの、優しい気持ちに蓋をせざるを得ないのが現状だろうと、容易に想像できてしまう。

 私はずっと現場を取材してきた。日本全国のケア施設を見てきた。外から見る立場から、中の現場に入ってみてわかったこと。それは、取材先で出会った、ものすごく尊敬している人たちの本質を突く言葉に確信を得たということ。

 ちょっと長い文章になりそうだけども、感じてもらえるものがあるはずだから、このまま綴ってみたいと思う。

 

ぶれない!!


 今までで最も“スゴい”と感じるケアの場が、栃木県小山市にある介護付き有料老人ホーム「新」(あらた)だ。施設長を務めたのち、独立。現在は全国に「介護3.0」を伝える横木淳平さん(40)。この方は本当に行動の前提にある「本気でやる」が崩れない。

 過去の記事を色々読んで頂きたいのだけど、本当にぶれない。絶対にぶれない。(同時に、横木さんの一番の理解者で、パトロンみたいな存在である篠崎一弘さん※も、めちゃくちゃスゴイ!!ということも加えておきたい。(※新を運営する法人の理事。篠崎さんについてもいずれどこかで触れたいと思う)

くらしのライフセーバー

横木さん

 ウユニみたいな写真が撮れると一気に全国レベルに知名度を上げた「父母ヶ浜」のある香川県三豊市と、市民大学「瀬戸内・暮らしの大学」によって今年定期的に開催されている“くらしのライフセーバー講座”。その講師が嬉しいことに横木さんだった。

 私は6月開催の部に参加した。そのときの記事は下記を。

 8月、10月にも開かれてきた同講座。10月21日は開催後に懇親会もあるということで、再び参加。内容は今までと同様なのだそうけども、この日も私はメモする手が止まらなかった。横木さんの言葉に強く頷き、脳みそがマインドセットされていく…。

 当日、まずは前回の振り返り。

 10月7日は父母ヶ浜で車いすに乗る・押すという現場体験が行われたようだった。

父母ヶ浜での体験

 映像を見ると、なんだかとてもいい雰囲気。そして、楽し気。

「車いすの人だって、あの砂浜を楽しめる。父母ヶ浜を楽しめる。そして、車いすに乗っている人だけじゃない。その状況をつくりだす方、与える側もハッピーですよね。Well-beingって、give&giveなことでもあるのかなと思います」と始まった。

 認知症ってなんですか?

 横木さんの言う認知症とは…

 ・周りの目を気にしない、自分の感情に純粋になる病気

そして

・今 その瞬間に全力で生きている人

 いま現在、認知症は治る病気ではないけども、2025年には4人に1人が75歳以上とも言われる社会で、ポジティブに捉え直さないと、何も生まれないじゃないですか。

 僕らが無理やりにでもポジティブに捉えないと、周りが元気にならない。介護者もラクにならないですよね。

  認知症の症状に「幻覚」がありますが、実は幻覚がある病気ってあまりないですよね?その裏には何があるのかを探ればいい。問題行動を個性と捉える。シグナルだと考えればいいんです。

 施設にいるお年寄りが昼間何度も外に出て行こうとする。昼間は介護士がたくさんいるからすぐ見つかって「危ない」と部屋に戻される。静止される。夜、介護士が手薄になり“チャーンス!”と外に出る。これって当たり前。

 理由があるから、その行動をしているだけ。

 ケアとは対策することじゃない。出て行こうとするなら、その理由を、目的地を一緒に見つけること。

 「たとえば、決まって夕方5時に怒り出して『帰る!』と言い張るおばあちゃん。そのおばあちゃんの履歴を辿ると、市役所に勤めていた。おばあちゃんにとって施設は市役所だった。仕事をする場所だった。勤務時間を終えて帰ろうとするのは当然。そこで、クリエイティブさを発揮するのが介護の仕事。おばあちゃに〃宿直〃という仕事をしてもらえばいいと思いつき、宿直をしてもらったんです。怒ることもなくなりました」と横木さん。

  また別に、帰宅願望の強いおばあちゃん。旦那さんはすでに亡くなっている。亡くなったことは分かっている。家のことはおばあちゃんがずっとやってきた。「帰りたい!!」と主張し続けるおばあちゃんにどう対応しますか?

  延々と「おばあちゃん、帰っても誰もいないし、一人だと危ないから」と宥め続ける?

  いや。

  軽トラでおばあちゃんの家にいき、旦那さんのお仏壇を施設にそのまま持ってきた。施設の部屋を、おばあちゃんの家にしたのだそう。帰宅願望は消え、おばあちゃんは他の入居者を自分の家に呼び、寛いでいる姿が。

  さらに別事例。

 新しい入居者さんの物色がひどい。他の入居者の部屋に入るものだからクレームの嵐。

 どうしますか?

  そもそも。

  なぜ物色はいけないのか?

  NGにならない状況をつくればいい。

  物を漁っていい空間をつくって、NGにならないようにすればいい。

  シグナルだから、そのうち状況は変化するけども「そのうち」を待っていられない私たち。
 そこを向精神薬などで対処するのではなく、シグナルと捉え、そのシグナルにきちんと関わる。その人の味方になる。関わりが増えると、だんだん元気になる。関係性が深まっていく。

 その行動より、世界観をみる、考えるということ。

  そこに、どれだけ本気になれるか。

  横木さんは本気でした。

  202号室のAさん。どうしても夜中に起きて施設の玄関に来る。部屋に鍵をかけるのではなく、施設の玄関脇にその人の部屋を設えた。するとAさんは、ベッドに横たわって寝るようになった。

 202号室があなたの部屋です、ってこっちの都合。202号室はどこにだってできる。

 そう考えるのが横木さんであり、介護3.0の捉え方。

なんで?の先にしかケアはない。

 矛盾するようだけども、認知症ってレッテルを貼らない。相手を認知症と見ない。

 なぜ、を深堀りする。

 ふつうの生活って、

 社会に触れる生活であり、内面、外面がある生活。

 ここにこそ、リハビリ・予防の時間があって、well-beingな高齢者の生活にもつながる、と横木さんは言うんですね。

本質

 本質から絶対にぶれない態度をもって、ビジョンがあって建てられたのが、介護付き有料老人ホーム・新。ソフトあってこそのハード。

新の写真は以下、2018年取材時のもの。

 施設は、建ててからがスタートなのだから余計に。

  「日本一居心地の悪い医務室を作りました」

  横木さん、サラッと言うんです(笑)。まいりました!

  「窓もない、狭い。すると、ナースが外で仕事をしてくれる。お年寄りのそばで仕事をしてくれるんですね。すると職域がなくなる」。

新 内部

 「事務室もいらない。事務室があるからネガティブな話題ばっかり出てくるわけで」。

  居室は狭い。

 部屋の外に出たくなる、をつくりだす。

 お年寄りに役割と居場所があるハード。

 面会という概念を壊すべく作られたカフェ・くりの実。


くりの実

 その人の家(暮らす場)なのに、面会っておかしくない?

 カフェをつくれば、おじいちゃんが孫にコーヒーを御馳走する機会にもなるし、家族が集合できる「場」にもなる。ついでに、地域の人がランチができる空間に。

 くりの実で使われている家具は、一部に入居者さんがかつて自宅で使っていたものがリユースされてもいる。

今や、予約しないとランチできないほどの人気店となってしまった。

あすなろ教室

あすなろ教室 外観

  あとづけで地域に開く

 「地域に開いている施設です」。
 
 聞こえはいいけれど〃ボランティアが慰問に来る”とは、すなわち、ずっと頭を下げ続けること。

 与えられる側でしかない。
 そうじゃない。

 一般の人が、ちょっと何か得意な人が、もちろんプロだって、その得意なことを披露したり、教えたりすることのできる場。

 場が使われることで、クオリティの高いイベントや教室がそこで自動的に開かれる。
 そこに赴く入居者。参加する入居者。
 新しいコミュニケーションも生まれる。
 施設側が人員を割いたり、時間をかけてレクを開いたりする必要はない。

  あるいは、こう。

 すぐにそれができる環境がある。

  たとえば、キッチン。思いついたらすぐに料理ができる。おやつがつくれたり、もそう。

  新は2階建てで吹き抜けがあちこちにある。

 横導線。

 縦導線だとマンパワーが要るのは当然。1階担当、2階担当、となるうえ、食堂が1階ともなれば、移動に時間も人手も要る。

 吹き抜けがあることで、つながりのある家となり、「行ってらっしゃい」「ごはん出来たよ」が言えるし、感じられる。外の気配や空気、人の動きが感じられるのが家だし“暮らし”というもの。


  お風呂…湯舟と同じ高さの椅子があれば、下肢筋力が弱った人でも入ることができる。
 前かがみになって(手をついて重心をかけられる設計がある)、お尻を沈められれば。

 そこにちょっと介護技術は必要だけども、安易に機械浴に頼らなくていい。

余白

 あちこちにある公共空間。椅子やソファが置かれていたり。

 余白

 黒板や掲示板。イベントの写真を

 俳句好きの人が書き込んだり、絵をかいたり、自由。

 誰かがそれを見れば「見たよ」って会話が生まれる。

 アルバムだってしまっておいたら見る機会もないけれど、見れる状況をつくればいい。

 人は会話するほど元気になっていく。

  ユニバーサルデザインが大切なのではなく、ハードが元気になるきっかけになってるか、が大切。

 いくら施設とはいえ、24時間ずっとケアを受けているわけじゃない。濃いケアは6時間ほどだと言われるそう。残り18時間は、ハードとともに。だからハードが大切ってそういうこと。

  リスク排除ではなく、可能性を伸ばすハードを考えられればいい。
 流動的にカスタマイズすればいい。

 そう横木さんは話します。

  その人らしい環境で、その人らしく生ききったと言えることが大切なんですよね。

自由の海へ


 講座が終わった後の懇親会で、私は感じました。

 横木さんも、(この場には不在だけど)篠崎さんも、心底本気なのだと。覚悟がハンパない。信頼もすごい。
 相当、いろんなことを考え抜いてきていることが伝わってくる。
 めちゃくちゃ、かっこいいんです。在り方が。

 新の母体である社会福祉法人丹緑会が運営する「栗林荘」。現在、大規模改修中で、昔ながらの大規模な特養が、大きく変わろうとしているのです。その途中経過を私は昨年6月に見学。篠崎さんと設計を担っているわくわくデザインの八木さんにお話を聞かせて頂いたのですが、本当に楽しみで。

栗林荘 長いまっすぐな廊下。白い蛍光灯。本当に「昔ながらの特養」
上の状況から…バスケットコートがある特養になる!!他にもワクワクする仕掛けがたくさん。

 介護3.0の本質は、「生きる」「暮らす」の本質。「社会」の本質。そして、問い。

 自由をとりに行け!

 そんな感じがしています。

 だからこそ、

 群馬県にあるMWS日高が運営する大規模デイ、その送迎システムを構築した北嶋誉史さんの「移動こそ、介護予防」は間違いなくそうだろうし、はっぴーの家ろっけんの代表・首藤義敬さんの言う(はっぴーの家にある)「圧倒的な世界観」、「日常の登場人物を増やす」も、本当に“真”。

  ハードに関して言うなら、ここも超有名・銀木犀を建てた下河原忠道さんが言ったという「高齢者住宅を突き詰めるとただの住宅になった」(『ケアとまちづくり、ときどきアート』p164)もまったくその通りなのだと思う。

 Well-beingがまさに起きている現場を生み出した人たちの見ている先は、

 それは“自由”というものなのかもしれない。

 最後にもうひとつ。
 精神病院を廃絶したイタリアの精神医療について書かれた、人類学者・松嶋健さんの『プシコ ナウティカ』。この本にはとても強い印象を残すフレーズがある。

分厚い本なのだけど、すっごく読み応えのある内容。中動態、インゴルドも出てきて超納得!!

「近づいてみれば誰一人まともな人はいない」

 人間を含んだ生きものは、「すべて騒がしい海にいるのである」。私たちは、そうした不可視の海や大気のなかに生きているがゆえに、触発され、行為することを余儀なくされる。まるで、凧のようにである。つまり、凧にエージェンシーを見出すことができるのが空気や風のおかげであるように、人間にエージェンシーを見出すことができるのも、不可視の集合性の次元の海のおかげなのだ。だから本当に見てとるべきなのは、「エージェンシーのダンス」ではなく、「アニマシーのダンス」、すなわち「生きていることのダンス」なのである。
 

『プシコ ナウティカ』P430より抜粋

 プシコ ナウティカ。

 魂の航海術。

 方向指示器の役目を果たすのは「ちゃんと感じること」。

 「生きている」ことの感覚を。

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