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エッセイ「ちゃぶ台におまんじゅう」

 京都の山間地で生まれ育った父は、昭和23年、菓子屋に就職した。中学校に求人が来ていて、先生の勧めもあり、食べるものに困らないだろうという思いもあって、決めたそうだ。
 父は、工場の2階の部屋に住み込みで働くことになった。清掃の仕事から始め、商品の箱詰め、配達などをしながら製菓衛生師の資格を取り、餡をつくる職人になった。業務用で仕入れる砂糖や小麦粉は1袋に30キロほど入っている。それらをかついで運ぶのも仕事のうちで、重いものも持てるようになったという。

 母と職場結婚した後は、工場のすぐ向かいの路地の奥の社宅に住んだ。昼の休憩時間、父は昼食をとるため一旦家に帰ってきた。作業着のまま、前掛けもつけたままで。分厚くて丈夫そうな生地の紺色の前掛けは、小麦粉で厚塗りされたようになっていた。そこに、そば粉もまざっていたのだろうか。私が近づくと咳が出る。小児喘息になったのもそのせいかと母は疑ったらしいが、本当のところはわからない。小学生になって体力がついてくると、喘息は自然におさまった。しかし、そばを食べれば湿疹が出る体質は治らず、残念ながら私は、父の作っていたそば餅を食べたことがない。ほかのおまんじゅうを食べるときは、いちいち「これ、おそば入ってへん? 食べても大丈夫?」と確認していた。

 我が家のちゃぶ台には、常に何かしらのおまんじゅうが載っていた。ちょっといびつなもの、皮が硬いもの、それに全国菓子大博覧会に出展するための試作品から失敗したものまで、「今度は何かな」とうきうきするほど、おまんじゅうに満たされていた。形は商品向きではないけれども、中身のあんこは父が腕によりをかけた逸品だ。普通の大きさの五倍ぐらいのどらやきを見たときは、「こんなん作れるんや」と驚いたものである。「売りもんと違うで。鉄板のぐあい見るのに作ってみただけや」と父は言う。ずっしり重く、自分の顔より大きい。一口かじったところで、あんこまで届かない。少しずつ割って、家族みんなで食べた。

 繁忙期、父は番重という平たいケースに、すはま団子を入れて持ち帰ってきたこともある。緑、黄、紅の三色あって、親指と人さし指でつまめるほど小さい。その団子を一本の楊枝に一色ずつ差していく。手作業で手間がかかるからと、中学生の私も駆り出される。ケースの中に転がる団子を拾い出し、ミニこけしのようなかわいらしい完成品に仕上げて並べたときには、ひと仕事したような達成感が味わえた。すはま団子は、小さくてもおいしいと主張しているように、きな粉と水飴と粉砂糖が溶け合った濃厚な匂いを放っていた。

 昭和50年代は、家庭用の電気餅つき機がブームだった。我が家でも購入して、正月用のお餅を一家総出で作った。
 まず、釜にもち米を入れて蒸す。1時間ほど経つとブザーが鳴る。ふたを開けると、湯気とお米の匂いが立ってくる。次に「つく」のボタンを押すと、釜の底にはめ込まれている羽根のような部品が回転する。粒々のお米が、機械の細かい振動でくっついてお餅になっていく。ひとかたまりになると、どてんどてんと暴れるように転げ回る。妹たちと釜をのぞき込み、予測不能な動きをおもしろがりながら見守った。時々手水を加えると、回転も滑らかとなり高速になる。お餅の表面をたたいてペタペタと音がしたら出来上がりだ。
 釜をひっくり返し、お餅を番重に広げ、つきたて熱々のお餅を手際よく分けるのは父。最初に鏡餅用に二つ取り分け、あとは小餅にする。「熱っ」と言いつつ、みんなが番重に手を伸ばす。餅とり粉をつけすぎるとお餅が硬くなり、粉をつけないとお餅が手にべたべたくっつく。びょーんと伸びて、うまくちぎれない。きれいな形にまとまらない。
 父の手からひねり出されたお餅は、丸くてつやつやしていた。やわらかいお餅に、母が用意してくれたきな粉やあんこをつけて口に運ぶ。出来たてほやほやはおいしい。これこそ我が家での餅つきの醍醐味だ。

 別の菓子工場に移り、80歳まで請われて働いていた父は、仕事をやめてからも気まぐれに台所に立つ。小豆を炊いて、ぼたもちができると「作ったで」と電話がある。すぐに実家にもらいに行く。
 令和になっても、実家のテーブルに並んだおせち料理に、きれいな黒豆が盛られている。大粒の黒豆を入手して二日がかりで作ったという父の逸品。器の中の黒豆は、一筋のしわもなく、つやつやと輝かしい。ふっくらしていて、ほどよい甘さでお箸が進む。
 私は相変わらず、おいしく味わう係でいる。

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