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エッセイ「銭湯の浴槽ひとり占め」

 昭和30年代後半から20年ほど、私は路地のどんつきにある家に住んでいた。路地は、両手を広げたぐらいの幅。入り口に表札がないので、奥に誰が住んでいるのかわからないし、たいがいの人は通り過ぎてしまう。路地に入るのは、この中の3軒の住人と住人に用事のある人だけ。
 それでも、地域ではこの路地が認識されていて、結構にぎやかに人が行き来していた。町内会対抗運動会、町内遠足、地蔵盆などの行事も盛んで、家族ぐるみでのお付き合いの機会も多くあった。

 町内で営業していた銭湯・さかえ湯のおばちゃんは、我が家に双子の女の子が誕生したとき、いっぺんに二人の世話をするのは大変でしょうと、私たち親子に開店直前の銭湯を使わせてくれた。母が一人を入れている間、おばちゃんは脱衣所でもう一人を見てくれている。母の「上がります」を合図に、おばちゃんは、広げたタオルに湯上がりの赤ちゃんをもらい受け、ベビーベッドに連れていく。そしてすぐさま、脱衣所で待機していたもう一人を母に預ける。おばちゃんは、外に出てきた子のほうに服を着せて、守りをしてくれるのだ。

 このとき幼稚園児の私も一緒に入浴した。浴槽の縁に両ひじをのせて湯につかっていると、透明の天井板から降りそそぐ日差しに全身を包み込まれたよう。夢心地なうっとりした気分で、大きな浴槽をひとり占めしていた。そして、私たちがさかえ湯をあとにするぐらいに、開店ののれんがかけられた。

 それから後も、さかえ湯通いは続く。しかし、銭湯へ行くタイミングが母と合わなくなってきた。「紅白歌のベストテン」が終わるまでテレビの前から離れられない。母に何度も「はよ行こ」と催促されても、「もうちょっと待って」と言うばかり。こんな小学4年生ぐらいからだろうか、母と別々に銭湯へ行くようになったのは。

 昭和54年、私が高校2年生のときに、さかえ湯は営業を終えた。閉店当日は無料開放されていて、たくさんのお客さんが来ていた。入浴代はただ、でもフルーツ牛乳代はただではない。番台に誰も座っていなかったので、飲み物が欲しい人は奥の家のほうまでおばちゃんを呼びに行った。
 さかえ湯が閉まってから、さかえ湯があった場所はいっぺんに暗くなった。銭湯の明かりが消えて、人通りがなくなって、しんとした。そんな状態になるとは想像ができなかった。

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