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フライングブラボー(拍手)と私

 コンサートでのフライングブラボー、フライング拍手というのが、どうも苦手だ。曲の最後の音が鳴ったあと、響きが消えないうちにブラボーを叫んだり拍手を始めたりする、あれだ。

 私は、どんな終わり方をする音楽でも、ホールにまだ音が残っていて、演奏者が立ちずさんでいる間は、音楽の余韻を静けさの中で楽しみたい。いましがた完結した音楽の姿が完全に消えてしまうまで、舞台と客席が一体となり、高い集中力を維持したままその行方を耳と目で追う、それは至高の瞬間だからだ。特に、聴いた音楽に心を動かされたときには、そのたかが数秒の時間が言い知れない幸福感を与えてくれる。それはこれまで何度も経験してきたことだ。つい最近では、2月に武蔵野で聴いたアリス・アデールの「フーガの技法」が忘れられない。
 
 フライングブラボーやフライング拍手が嫌なら、家でCDでも聴いてろと言う人もいる。でも、それは話が違う。あの「静寂」はコンサート会場でしか経験できないのだ。同じナマの空間で、同じ時間を多くの人たちと共有してこそ初めて生まれる瞬間である。コンサートには、録音で聴いても本当には体感できない「文脈」があるのだ。

 最近では私と同様の喜びを共有する方が増えたのだろうか。フライングに遭遇してがっかりする機会は、随分減ったように思う。演奏開始前の会場アナウンスの工夫も功を奏しているのかもしれない。

 しかし、残念ながら皆無とまではない。先日見た東京都響の番組でも、楽団主幹の方が、本編後のトークでフライングブラボー(拍手)に強く苦言を呈しておられたので、作り手側をも悩ませるような事態は日々起きているのだろう。実際、本編で放送された演奏会でも、凄まじいフライングブラボーがあって苦笑してしまった。

 演奏会が存在する限り、フライングブラボーや拍手は決してなくならないのだろう。それが人生というものだし、社会というものだと諦めるしかないのかもしれない。

 だが、いったい、演奏が終わるや否や、我先に叫び、手を叩く方々には、そうせねばならないどんな切実な理由があるのだろうか。私と同じ側にいる方々の意見や、寛容になれと主張する人たちの擁護は、さまざまなところでよく目にするが現場で実践している方々の主張は見たことがない。だから、その人たちの気持ちは、正直よく分からない。

 でも、どうして私はフライングブラボー(拍手)が苦手なのか、どうして私はそれをやろうと思わないのかは分かっている。

 理由は大きく三つある。

 一つは、ブラボーや拍手の音が、極めて「非音楽的」だと感じるからだ。それは聴衆からの一方的で暴力的なノイズであり、そんなものでホールにまだ残っている繊細で儚い響きをかき消してしまうのは、ひな鳥を手で握りつぶすような行為とか、道の上を歩いている虫を車で轢くような行為に思えてしまうのだ。(ここでケージの「4分33秒」をとり上げ、拍手やブラボーを「音楽」として捉える考え方は、たぶん論点がずれるので排除しておく)

 もう一つは、自分の声が死ぬほど嫌いだからだ。自分の声が他に先んじてホールに響き渡り、消え切らない響きをかき消す場面を想像しただけで、申し訳なさ過ぎて卒倒してしまう。自分の美声に自信があり、それをどうしても音楽に重ねたいとか、人様にお聞かせしたいという欲望があれば話は別だが、私には到底できない。

 そして、最後。たった数秒を競うようにしてヒステリックに静寂を突き破り、他者からの非難を受けるリスクを冒してまで、ブラボーや拍手で誰かに伝えたいものが私には何もないからだ。数秒ほど黙って完全な静寂が来て、演奏者が緊張を緩められる状況になるのを待ったあとでも、私の音楽への反応は十分に表現できる。たかが数秒待ったからと言って損なわれるものはない。まだ残っている音に自分の音を被せて失うものはあっても、得られるものは何もないのだ。

 だから私はフライングブラボーや拍手はしたくないし、できない。

 言うまでもなく、これは唯一の正解ではない。フライングブラボーや拍手を残念に思うのは私の個人的な好き嫌い、考え方にすぎないのだ。私の勝手である。それを誰かに押しつけるつもりもないし、自分の望む行動への変容を強要するつもりもない。誰かを批判しようという意志もない。

 第一、「フライングブラボーや拍手許すまじ」というネット警察的な空気が蔓延し、演奏会全体の空気が窮屈になってしまうと、それは本末転倒である。緊張とリラックスが良いバランスで共存した、ゆとりのある雰囲気の中でこそ、音楽が生き生きと鳴り響くのだから。

 だから、私にできることと言えば、演奏会の場で「今日はフライングがありませんように」と祈るような気持ちで最後の瞬間を迎え、その結果に一喜一憂することくらいだ。

 これから私が何度くらいコンサートに行けるかは分からないけれど、素晴らしい演奏とともに、そのあとの忘れがたい「幸福の数秒」を一度でも多く体験できることを心から願っている。

(付記1) 
 一つ懺悔しておく。そういうお前はフライングブラボーや拍手はしたことがないのだろうなと聞かれたら、「いいえ、やったことがあります」と答えなければならないのだ。

 私のこれまでの人生で唯一のフライングブラボー・拍手経験は、カルロス・クライバー指揮バイエルン国立管の来日時、大阪公演(1986年)のアンコールで、ヨハン・シュトラウスのポルカ「雷鳴と電光」を聴いたときだ。あのときはフライングどころか、最後の音がまだ鳴っている間に立ち上がって拍手をした。たぶん、「ウオー」と叫んだとも思う。

 ただ、言い訳をすると、(旧)大阪フェスティバルホール全体がロックコンサートかアイドルのライヴかというくらいの興奮状態に陥り、聴衆のほぼ全員が同罪だったのだ。みんながやっていたから自分に罪がないとは言わないけれど、あれは私の意志の力ではどうにもできなかった。同時期の東京でのライヴが映像記録で残っていて、その演奏の凄まじさは多くの人が知っているだろうから、私の無粋な行為も許してもらえるのではないかと思っている。ごめんなさい。

(付記2)
 かなり前のことだが、拙ブログで、フライングブラボーについて書いたことがある。我ながらだらだらと長くて酷い文章で、他人の批判を結構しているのが気になるけれど、「お前、こんなん書いてたやろ」と後から指摘されると嫌なのでリンクを載せておく。因みに、書いた内容自体は、今私が思っていることとさほど変わっていない。


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