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読み返してみたら【エッセイ】

ここ数日noteを書かずに過ごしていた。飽きたわけではなく、書けなくなったわけでもなく、ただ書いていない時間の多くを読む時間に割り当てていた。出張中、電波の届かないエリアでは紙の本を読んで、電車での移動中やホテルの一室では他の人が書いたnoteをランダムにつらつらと読んだ。キャッチーなタイトルでなくても読む。それだけで心が落ち着いた。知らない人が書いた文章でも一行二行と読み進めるとその人の世界がちょっとずつ見えてくる。その人が抱えている悩みやその人が物事を見定める視点、そんなものが頭に流れてくる。

そして、その流れで過去に自身が書いたnoteを読み返してみた。ランダムで他人の文章を多く読んだ後に、過去の自分の文章を読む。一年ほど遡ると自分のnoteなのに他人が書いた文章のように錯覚した。不思議だなと思った。今の自分ならそうは書かないだろうといった流れでも過去の自分は当然の事のように書き進めてゆく。過去の自分が稚拙だとか言うつもりはない。むしろ愛おしく思った。

普段はエッセイやショートストーリーを書くことが私は多いんだけど、

ここではお笑いのネタを練習で書いていた。サンドウィッチマンが好きなのでもしも自分が彼らのネタを作るとしたらどんな流れになるだろうと書いたものだ。懐かしいな。一年も経つとそんなこと書いたっけとなるフレーズも多くてビックリした。最近私を知った人はこんなのは知らないだろうから興味が湧いたなら一度読んでみてほしいと思う。

こんなのもあった。

これはじゃりン子チエを見た時の記憶をたどった時のnoteだ。子供のときには分からない大人になってから見えてくる光景というものがあって、それが子供の時にみた物語の記憶の断片から浮かび上がることもあるってことを言及したものだ。働かないロクでなしの親であってもどこかしら親としての人格を持っていたりするし、普通ではない家庭にも人の愛は存在する。そんなことをつらつらと思いながら書いたものだ。

◇◇◇

私は思う。ストックするつもりで大切に書いていたとしても、日々文章をアップしていると、どうしてもフローとして流れていってしまうのが現実。それはnoteであってもtwitterであっても同じ。だから最終的には流れてゆくものと心に留めておくもの、その線引は自分でひかなければならない。

自分にとって大切なものであったとしても記憶に保持し続けることはとてもじゃないけどできないと思うから、文章や写真で記録として残しておく。紙でもネット上でも良い。その記録は膨大に重なってゆくだろう。でも心に引っ掛かった言葉の記憶さえあれば、膨大な記録の山からあの時の自分にもう一度会いにゆくことができる。

そして読み返してみたら自分の足跡が見える。

その時に優しい懐かしさの様なものを覚えればそこには少なからず敬意が生まれるだろう。それがたとえ過去の自分に対してであったとしても。

#エッセイ #noteでよかったこと

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