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ナカさんの読書記録 「四代竹本越路大夫」高木浩志

2002年にお亡くなりになった四代竹本越路大夫、文楽歴の浅い私は生で聴いたことがありません。とある講座で「竹本住大夫師匠の稽古があまりにも厳しく、大学生にDVD見せたら震え上がって怖がっていた!」という話を聞き、どうしてもその”鬼稽古”が見たくてわざわざDVD買いました。お弟子さんに容赦なく怒声を浴びせる住大夫・・・恐ろしい稽古風景!そのDVDの中で住さんが自分の兄弟子・越路大夫に稽古つけてもらうシーンが印象に残りました。前のシーンでは頭から湯気を出し弟子を叱り飛ばしていた住さんが、兄弟子の前では頭を下げ噴き出す汗を拭き、越路さんの指導を熱心に受ける様子に感銘を受けました。当時住さん76歳、越路さん86歳。
(↓動画34分あたりからのシーンです)

弟弟子に向ける越路大夫の鋭い視線、ピンと伸びた背筋、鍛え抜かれた太夫はどんなに高齢でも凛として目力があります!カッコイイ!しかし人間国宝にまでなっても兄弟子に教えを乞う住大夫さんも素晴らしい方です。
そのシーンが忘れられなくて越路大夫のファンになってしまいました。現役の太夫さんでは豊竹靖太夫さんを応援しているのですが、その師匠が去年亡くなった豊竹嶋大夫、そのまた師匠が越路大夫。きっと芸や精神が受け継がれているはず。どんな方だったのか知りたくて、この本を手に取りました。

文楽研究家のの高木浩志氏が越路大夫に聞き書きというスタイルの本です。越路さん70歳の頃に出版された本。本名・小出清、大正2年1月4日生まれ。良いところのお坊っちゃんだったそうです。「大阪のええとこのボン」ちなみに住大夫さんも坊っちゃん育ちだそう。でもお金持ちで苦労知らずと思われるのが嫌で厳しい修行時代には貧乏もした越路大夫。昭和38年文楽協会が出来るまで、因会と三和会に分裂していた時代は本当に苦労され、15年のあいだ三和会で貫き通し、旅を続けた越路大夫。昭和46年には人間国宝になりました。
性格はそうとうの頑固で気が強いタイプだったようです。落語家の八代目林家正蔵(のちの彦六)が「トンガリの師匠」と呼ばれていたのを思い出しました。越路さんもかなりの「トンガリ」だったみたい!いくら師匠や目上の人であっても自分の信念は曲げない、自分の生き方を貫く人。あの鋭い目の奥にはそうとうの頑固さを感じます。

なんと越路さんは昭和13年25歳の時に、一度廃業なさっているんですね。このエピソードにはビックリしました!越路さんのお弟子さんの嶋太夫さんも廃業してまた文楽に戻られた人。偶然とはいえ同じ体験を持つ師弟、しかもお二人とも文楽に戻られて大成なさっているのだから素晴らしい。
当時若手期待の星だった越路さん。「芸から、義太夫節から逃げたんです。(略)修行の奥深さに対して、自分で自分に見切りをつけたのです。芸の壁です。(略)とにかくこの時期は人の浄瑠璃が上手に聞こえて仕方なかった。僕、くさったら徹底してくさる質です。」その結果、廃業してなんとトンカツ屋になった越路さん。東京駅近くで「喜よし」というトンカツ屋を三年位やっていたそうです。元々実家が食べ物商売だったので飲食店をひらいたそうですが、どんなお店だったんでしょう・・・越路さんがトンカツ揚げてる姿、想像できない(笑)トンカツ屋時代にも文楽関係者も食べに来てくれたりと交流は続いていたようです。(嶋大夫は廃業してからは完全に文楽関係者とは連絡を絶っていたそう)三年経って色々な事情が重なり文楽に戻ることに。「結局浄瑠璃が忘れられなかったんですが、僕の性格とか、今までのやり方から考えたら、卑怯には違いありません。ただ好きな道なのに自分に負けた、そのやめる時の苦しみからしたら、意外に楽に戻れました。師匠に戻って来いといわれたら、間髪を入れず、ハイといってしまいました。やっぱり淋しかったんですね。」トンガリだけど実に素直な越路さん。自分の弱さも認める越路さん。しなやかな人間性を感じます。

越路太夫の芸に対する考え方で印象に残った部分をいくつか。
「古靭師匠も目は鋭かった。やっぱり目の使えん太夫の浄瑠璃は死んでますよ。床本を見るでもなし、目線が中途半端にそこらをさまよっている太夫に、ろくな浄瑠璃ありません」・・・これは義太夫だけでなくすべての芸能に言えると思いますね。クラシック音楽も落語も。
「ある日突然というのではなく、毎日一杯にやっていると、徐々に皮がめくれてくるのです。これは自分ではわかりません。人は何かのきっかけで、ある日ふと気付くことがあります。芸というのは苔のようなものですね。いつからついたのか誰にもわからんが、ふと気付くと、みっちり苔むしている、そんなもんでしょう。」芸の習得は長い道のりです。私のような素人はどうしても道を急ぎがちだし、結果を早く得たがるのは悪い癖。そして、毎日ちょっとずつ、ではなく「毎日一杯にやる」っていうのもプロの言葉です。

文楽は三味線が太夫を育てる、太夫が三味線を育てる、という変わったやり方があります。西洋音楽の様に同種の楽器(歌手)の方が指導しやすいと思えますが、文楽はベテラン三味線(太夫)が若手太夫(三味線)を鍛えていく、ジグザグに芸を伝えていく、ちょっと不思議ですが。越路さんの若い頃、三味線の喜左衛門師匠には相当鍛えられたそうで「はじめは締め上げられましたよ。まず調子です。一つの教育方針だったんですね。(略)こっちもきついけど、お客さんも聞きづらいと思いますよ。だけど僕も負けず嫌いだから、一遍も泣きごといいませんでしたよ。必死でやりました。舞台へ出て、高い調子で弾き始めたら、こっちはその調子でやるしかないです。喜左衛門師匠にしたら歳いくと調子はどうしても下がってくる。今のうちにやらしとかないかんということでしょう。その時、四十一歳でした。」スパルタ稽古ならぬ、スパルタ本番!クラシック音楽と違い、決まった楽譜があるのでない浄瑠璃は、三味線の弾き始めた音高に合わせて語らないとなりませんから・・・恐ろしい!でもそのおかげで老年になっても美声の太夫でいられたんですね。やはり厳しい修行は裏切りません。

越路さんのプライベートについて。お子さんは4人おられたようです。
息子さん曰く「筋を通さなかった場合は必ず叱られました。義太夫で鍛えた声ですから、おこるとこわかったですよ。スポーツが好きで、野球やボクシングや相撲をテレビで見ながらエキサイトして、画面に向かって「いけッ」などと声援している姿なんか印象的です。」とのこと。家ではほとんで文楽の話もしたことなく、三味線の人が来たこともなく、いわゆる「仕事を家に持ち込まないお父さん」だったようです。
最期に著者の高木浩志さんの「陰の声」という章では、素顔の越路太夫の様子が語られています。越路さんはほとんどご自分の事を口にしない方だったようです。最初の奥様が亡くなられ、しばらく全くの一人きりの生活を経て再婚。「大人のロマンスとして巷間伝えられるいくつかのエピソードも、あるにはある」二人目の奥様、一女さんと越路さんの素敵な写真も掲載されています。「今、お二人は京都の鴨川べりのマンションで、静淑に暮らしている。」あ、あのDVDの中で、住大夫さんが越路さんのところへお稽古にやってくるシーンのマンションがそうかな?
「僕は、旅はジーンズでいくんです。東京の四谷でちゃんと自分で買うんです。」ジーンズ姿の越路さん、写真が見みたい!細身だし似合いそう!

「僕は相手に合わせたり、時勢に合わしたりはしません。というより出来ません。若い太夫にも、僕が習ったままを伝えたい。僕が師匠から聞いたままを、次の世代へ残したい。日本人の心の、本当の姿が、義太夫節にはあると思っています。(略)僕は僕で、死ぬ覚悟で、僕自身をぶっつけ続けます。」めちゃくちゃトンガった、最高にクールな締めくくりじゃないですか?!この部分だけ抜き出して読んだら、とうてい70歳とは思えないです!竹本越路大夫の義太夫は緻密で清冽、気品があって素晴らしい語りです。
CDもたくさん出ていますのでぜひ聴いていただければと思います。

2020.12

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