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アイデンティティと資本主義の混沌の中から『誇り』を生み出せ

ある山の南側に弱ったハトを助けた家があり、同じ山の北側に弱ったハヤブサを助けた家があった。ハトとハヤブサは同じ日に回復し、山に戻された。山の頂上で、放たれたばかりのハヤブサが放たれたばかりのハトを狩って食べた。

北側の家の人達はハヤブサが野生に返った、と喜んだ。南側の人達はせっかく助けたハトが、と悲しんだ。

資本主義である限り、競い合いと利権争いのゲームは消えない。勿論消えなくていい。ただしその後に残る批評、賛同、ムーブメント、といった副産物が余計なのだ。

全ての感情論は、人の意思と欲から生まれる。そして必ず、人の主観から成り立つ。どちらが正しいとかは無い。強いてどちらかの勝ち負けを決めるとすれば、精査基準が定まった時。票田争いの政治ステージの問題か?コロナのような生死に関わる生命としての本能ステージの問題か?もしくは地球上で一番知的で群れることを自己防衛の武器としてきた人間としての感情論のステージか。位置付けが明確になった瞬間から自然多数決が行われ、落ち着くべき形、場所へと流れ進むのみである。そんな勝ち負けには全く興味が湧いてこない。

組織(チーム)でも同じことが起こっている。エゴから生まれる主観同士のやり合いが縦横無尽に飛び交い、ロールプレイングゲームの毒状態のように組織(チーム)全体の体力をジワジワと奪っていく。これが自分達で自らの体力を削っているということに気付かずに起きているから怖い。

全てを凌駕し、愛し合い支え合い補い合う未来はどうやったら生み出せるのだろうか?その答えは『誇り』ではないかと思う。(ちなみにここは主観だ。Twitterの呟きとなんら変わらないので悪しからず、、、。)

仕掛ける側と受ける側、対話中のお互いのスタンス、企業の存在意義、上司と部下、それぞれが各々に誇りを抱き中庸の立場で立っていられたなら、、、

そんな世界観を夢に抱きながら、エゴの渦巻く戦場に身を置いている自分がいる。さて、zoomミーティングの時間だ、、、






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