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フリーランスは固定費は少なければ少ないほどいい【月刊(本当は週刊だけど)お気楽フリーランス論Vol.9】見栄は不要、オシャレライフは長続きしない!

唐津の繁華街みたいなところがあるのですが、そこの店先でおばちゃんが炭火で鰻を焼いていました。あまりにもいい匂いだったので見に行ったら「さっきまで生きとったーとよ」と言い、頭がついた鰻というのも珍しいので買ってみました。名古屋以西では関東風の「蒸し」はないみたいですね。今や国産の鰻は高級品ですが、美味しかったですよ~。

年収800万円台の無名フリーランスは本当にキツい

さて、今回も前回同様、鈴木拓郎さんからいただいた質問から入ります。「年収800万円台だった頃の悩みについて教えてください」というものです。これだけだと一体何のことだか分からないと思いますので、会話の流れを説明しますね。私が東京を出て佐賀県唐津市へ移住する2日前の話です。赤坂Bizタワー地下のうどん屋で「最後に会いましょう!」となったのでした。この日は我が家を引き渡す前日ということで、会合が3連発、という状況で鈴木さんとは1時間しか時間がありませんでした。

鈴木:これまでキツかった時期っていつですか?

中川:年収800万円台の時が一番キツかったです。

鈴木:えっ? それって金銭的にはキツくありませんよね。

中川:いや、コレがキツいんですよ。金銭的には問題ないのですが、なんというか、「あっ、こんな働き方はもうできないな」となるんですよね……。う~ん、話すと長くなるので、今度noteで書きますね。

鈴木:そうしたら「年収800万円台はなぜキツかったのか」について教えてくださいね。

ということなので、ここで書きます。もちろん一般化はできない話ですが、私自身の体験とこの時決意したことを書いてみます。結果的にこの2年間があったから「働き方を変えなくては」という決意に繋がったと思っています。

私が年収800万円台になったのはフリーになって3年目の2003年(868万9525円)です。Vol.1でも書きましたが、2年目は400万円台、4年目も800万円台になり、5年目は1066万7063円になりました。

800万円台だった2003年と2004年は、「無名のライターがとにかく大量の仕事量をこなし、睡眠時間が無茶苦茶少ないし恋人とも遊ぶことがままならない」2年間でした。完全にジェネラリストとして、雑誌社のオファーを次々とこなし、1ページあたり●●円、という仕事を大量にこなすことで800万円台を獲得できたのです。

もちろん無名のライターであっても、年間多数の著者のゴーストライターをやっている知り合いはすごく稼いだことはあります。3%や4%の印税契約を結んだため、その本がヒットしたこともあり年収1500万円、なんて年もありました。これは無名であってもうまいことやれた例でしょう。ただ、バカ売れする本を担当できるかどうかは分からない。この方も翌年はドカーンと減り800万円ぐらいになっています。

私がこれまでの人生で最も忙しかったのは、2000年、博報堂時代の4年目でしたが、次いで忙しかったのが2003年と2004年です。当時、すでに私はどんなオファーに対しても「喜んで!」と言う「ライター・編集界の『庄や』」としてのポジションは獲得しており、どんな仕事でも受けることから「ライター業界の落ち葉拾い」とも呼ばれていました。

2002年の400万円台からのボーンと2倍以上になったことから2003年は「ウヒヒ、頑張れば頑張るだけもらえるこの生活、いいな。ワシも頑張ったのぅ」なんて思ったのですが、翌・2004年も同じような生活をしているとこう考えるようになります。

待てよ、今年も去年と同じぐらい必死に長時間労働をしたけど、年収、あんまり変わってないじゃん! も、もしかしてこのレベルの収入を維持しようとしたらこの2年間ぐらいと同じだけ毎年働かなくちゃいけないの! 風呂にも入れないの! 

さらに、将来に対する不安も出てくるんですよね……。

年収800万円台から脱却する3つの方法

この2年間はオレ、若手(29~31歳)として仕事を頼まれやすい立場にいたけど、これが未来永劫続くわけないよな……。このまま無名ライターで「1ページなんぼ」の仕事をこなし続けるだけだったら将来はもっと使い勝手がいい若手にオレの仕事全部取られるじゃんか……。

というところから、一つ真理を発見したのはコレ。

無名のページ単価●●円、という働き方をするライター・編集者はいくら長時間労働をしても800万円台以上は行かない。その先に行くには「自分の名前で仕事が取れる」「何らかの専門家になり、『先生』になる」「商売の”上流”を握り、自分からフリーランスに発注する立場になる」の3つしかないな、ということを考えたのです。そして、これらを数年間で達成できなかったら、恥を忍んで古巣・博報堂の中途採用試験を受けて「2001年、突発的に辞めてしまい申し訳ありませんでした。どんだけ博報堂社員でいることが有難かったか、ということを痛感しました。これからはもう辞めませんのでなにとぞ私を再雇用してください!」と頭を下げることも視野にいれていたのです。

幸いなことに2005年は昔取った杵柄ということで、フリーのPRプランナーとしての仕事が多数あったため、1066万円に到達し、その翌年はネットニュース編集者としての生活が開始したため1708万円に成長することができたのです。上記3つのうち「専門家」「上流」は達成できています。ただし、「自分の名前」はまだ達成されておらず、「専門家」とはいえ「先生」ではないため、実質的には4つのうち2つが達成された状態といえましょう。

とはいっても、「無名のフリーランスが長時間労働でページ単価●●円」でやるレベルからは脱することができました。労働時間も圧倒的に減り、私は「800万円台はキツい」という確信を得るに至ったのです。

見栄と高額の固定費は無駄

ある程度稼ぎが増えるとやりたくなるのがそうです。「見栄張り」です。今回はそれがいかに恐ろしいことか、そしてそんな自己顕示欲がいかに無駄で将来の自分を苦しめるか、について書いてみます。もちろんこれは個々の価値観に依るものですし、私が余計なことを他人様に押し付ける気はない。あくまでも47歳でセミリタイアできたことは、こうした「見栄」を張らず固定費を減らしたから、ということがとてつもなくデカかったかな、と思っています。

これまでの私のオンボロオフィスの変遷

まずは私のこれまでのオフィスの状況をいくつかお見せしましょう。

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