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「私」がいっぱい(パート1.5)

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記事一覧

「私」がいっぱい(パート1.5)【22】

【22】二人称の優位、貫通の諸相  森岡氏の「貫通型独在性」の概念は、①二人称的確定指示の…

中原紀生
1年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【21】

【21】余録、独在的存在者の個数  森岡氏によれば、独在的存在者は「ただ一つ」なのだから、…

中原紀生
1年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【20】

【20】補遺、独在的存在者の場所・再考  前回引用した文章の中で、森岡氏は、「森岡の言う独…

中原紀生
1年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【19】

【19】貫通型独在性をめぐる後日譚  第5章「貫通によって開かれる独在性──あとがきに代え…

中原紀生
1年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【18】

【18】短い総括、エクリチュール、鏡像段階  第3章第5節。  引き続き森岡氏は、永井氏の…

中原紀生
1年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【17】

【17】補遺、風間君の質問をめぐって  『〈私〉をめぐる対決』は、(森岡氏の進行・編集によ…

中原紀生
2年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【16】

【16】承前、哲学的感度  第3章第4節で、森岡氏は、かの「唯一最大の論点」に関する“新機軸”もしくは“新趣向”を繰り出します。そしてそれは、永井氏からの最終的な反撃を引き出すことになるのです。  森岡氏は、「風間くんの質問」(次回取りあげる予定)に言及した際、そもそも「この問いの全体がどの視点から見られているのか」(164頁)──神か人物○○(永井氏の表記では「私」)かそれとも読者なのか──という論点を指摘し、これを別の角度から見るために「人物○○と〈私〉が連結される三つ

「私」がいっぱい(パート1.5)【15】

【15】哲学的感度  第3章第4節で、森岡氏は、いよいよ“中期”と“後期”の永井哲学(のい…

中原紀生
2年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【14】

【14】補遺、独在主義に基づく誕生肯定  第3章第3節に書かれていた事柄のうち、ぜひ(ある…

中原紀生
2年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【13】

【13】承前、独在的存在者の場所・二人称的確定指示  私が、森岡氏の「二人称的確定指示」の…

中原紀生
2年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【12】

【12】独在的存在者の場所・二人称的確定指示  第3章第3節。森岡氏はここで、永井均の〈私…

中原紀生
2年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【11】

【11】ピン止めされる〈私〉  第3章第2節で森岡氏は、「翔太が〈私〉である」と措定するこ…

中原紀生
2年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【10】

【10】〈私〉そのものが剥き出しで持続する  第3章の第1節で森岡氏は、自身の直観的な「違…

中原紀生
2年前
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「私」がいっぱい(パート1.5)【9】

【9】唯一最大の論点  本題に入ります。  森岡氏が、『〈私〉をめぐる対決』第5章で、「森岡が永井に問いかけた唯一最大の論点は、「人物○○が〈私〉である」と「〈私〉が人物○○である」は根本的に異なっているというものであった」(283頁)と書いている、その「唯一最大の論点」(ただし、永井氏にとっては論点ですらなかった)に絞って、以下、“永井の独在論”と“森岡の独在論”の噛み合わない対立の様相、というか、それぞれの“感触”の違いのようなものを味わっていきたいと思います。  発