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11月18日(日記)日記について考えてしまい手が止まる

どんよりとした曇り

だんたん、書評とか追悼の文とか、感銘を受けた物事を紹介する文が書けなくなってきた。
というより、書きたくなくなってきた。
敢えて自分が書かなくても、このNote始め、世の中多くの人が的確で優れた書評を書いていらっしゃる。

自分は本当にただの印象とか、うろ覚えの記憶を辿って書くから、後から読んで違っていると思うことも多くなった。それだったら、アマゾンのレビューでいいのかもしれない。

そうなると、Noteってなんだろうと思ってしまうのだが、ブログって何?
エッセイって何?って、考えの連鎖に及ぶ。

きっと、好きなことを書けばいいのだろう。この記事も日記として、好きなことを書くスタンスでやってきたけれど、やはり人に読まれると思うと、日記であって、日記でなくなってしまう。

日記文学で名高い、永井荷風の「断腸亭日乗」も、それとは別にパーソナルな日記を密かに書いていたという。

自分以外に読まれる可能性がある限り、それは日記であって日記ではなくなるのかもしれない。

それは、「紫式部日記」や、「更科日記」などの、日本の日記文学の定義を元から崩しかねない。そこには、どこか人から読まれるかもという、衒いや自意識がどうしてもにじみ出てしまう。

本当の日記、それは自分が死んだとき、中を見ないでお棺に入れて、燃やしてくださいと願うようなものだろう。

果たして、そこに書かれてあるもの。きっと、他人には知られたくない、自分で負の部分と思うことの多くが書かれてある気がする。

それは、歳を取れば取るほど、如実になっていく。幼稚園児の日記がたわいもないが、純粋なものであるのと反比例するように。

外国の作家の誰かが、「歳を取ってからの日記は、心情の吐瀉物に過ぎない。読み返すと自分でも吐き気がする」と上手いことを言っていたが、少しわかる気がする。

人に読まれる日記、エッセイ。「読みたいことを、書けばいい」という本があったが、まさに、この題名が言うように、日記がただの吐瀉物なるか、読み物としての一種のエッセイとなるかの差を決めるひとつの分水嶺なのかもしれない。

“紅葉見とれ 哀れ落ち葉を 踏む私”





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