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ジョアン・ミロ展を見て

ジョアン・ミロ展を見てきました。私は、元々具象画より抽象画の方が好きで、一番好きな画家と聞かれれば、パウル・クレーと答えています。そういう意味でジョアン・ミロも好きな画家の一人です。

たぶん、彼らに共通しているのは、作品を見ているとそこに、音楽を感じられるからかもしれません。

楽器は何一つ弾けないのですが(小さいころ、ピアノ・ギターを習いましたがまるで身に付かず)、音楽を音楽として聞くだけではなく、絵や、陶器、建物、映画など、作品自体から音楽を感じられるものが何でも好きです。

それは、小説のような文章でも同じです。何となく自然に曲が浮かぶような、言葉の連なりを見ているととても気持ちがいいです。

たとえば、詩で言えば谷川俊太郎さん、小説で言えば、村上春樹さんがいい例です。そこに音楽を感じるという読者は、たくさんいると思います。事実、村上春樹さん自身も音楽が好きで、音楽を感じられる文章を書くことを心掛けていると読んだことがあります。

スタンダールも、何よりも文章のリズムを重視していて、あの一種のロックミュージックのような疾走感が生まれたのだと思います。

ですから、ジョアン・ミロの作品を見ていると、どうしても文章との関係を考えてしまいます。事実、絵と文学の関りは大きく、写実主義、印象派など互いに影響を与え合ったものも多いと思います。

絵と音楽と文章。このトライアングルと相互の繋がりは、これからの文章を考えていくうえでとても重要な要素になっていくでしょう。

今の時代、絵を感じる、それとともに音楽を感じられる文章を書くということは、とても高次元で高難度レベルの目標だとは思います。

例えば、ジャン=ミシェル・バスキアのような絵、そして、坂本龍一さんの音楽を文章で表そうとするようなものです。そう、絶対に不可能です。

かつて日本の文学には、美文家と呼ばれる人がいました。ただし、そこに名を連ねる人たちの文章を読むと、正直言ってとても古く感じます。なぜなら、そこには古き日本流の音楽とリズムが流れてしまっているからです。もちろん、古いから面白くない、価値がないというわけではありません。

ただ、これから日本の文学が世界に出ていくには、音楽シーンが西洋化したように、現代の文章も西洋化していく必要があるのかもしれません。と、同時に日本らしさを残す。この、文化のせめぎあいは、音楽や絵画、建築の方が先に強烈な洗礼を浴びているかもしれません。

もちろん、そんなことを考えていて、肝心かなめの物語自体が面白くなかったらどうしようもないですし、そもそも世界に通用しなくてもいいかもしれません。

ジョアン・ミロの一枚の絵画のように、作者が亡くなった何十年も後に、自分を知らない多くの人たちが感動してくれるかもしれないという夢は、創作者としてとても魅力あるチャレンジのような気がします。
 では

夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com