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自らを振り返る 〜 中学生・高校生

※このnoteは前回からの続きとなります。前回のnoteはこちらをご覧下さい。

 前回の話から、時を少しだけ戻す。

 ITに目覚める原体験となった、中学生・高校生の頃を振り返る。

 中学生の頃、パソコンに憧れた私は、中学校にあるパソコンを使い倒した。当時、中学校の多目的教室には、NECのPC-9801BXという、PC-9800シリーズの普及機が生徒用に40台設置され、PC-9801BAという教員用のPCと、サーバ専用機(こちらもPC-9800ベースだった)が設置され、10BASE-2のLANが接続されている。LANはNovellのNetwareが導入されていた。教員用のPCには、ドットインパクトプリンタ、5インチのフロッピィディスクドライブ、内臓HDDと合わせて、外付けHDDも付いており、当時としては先進的なものであった。

 毎週末の土曜日は、午後が課外授業となる。早速、私は多目的教室にあるパソコンに目を付け、毎週末、サーバの仕様、LANの仕様を勉強し出した。当時、マニュアルは全て本である。分厚い辞典のようなマニュアルを読み尽くし、実際の環境で動かした。そして、中学校の環境は、マニュアルに書かれているほんの一部の機能しか利用していない事を知ったので、他の機能を試してたかったのだ。多目的教室に入ると、生徒なのに教員用のPCに座り、MS-DOSの画面に対峙する。周りからは変人と思われていただろうが、顧問の先生が寛容だったからか、怒られる事はなく、むしろ使い方が分からない時、私へ聞いて頂けるようになっていた。そういえば、顧問の先生から叱られたのは、15時の課外授業の時間を超えてもパソコンを使い続けたせいで、帰宅するよう促された事くらいだった。

後に、多目的教室のパソコンに関する授業の準備は自分がするようになる。課外授業以外にも「情報」という科目があり、生徒全員が情報処理を履修する。もちろん、全員がパソコンを使いこなせる訳ではないから、先生と手分けして、同級生へパソコンを教えていた。

そして、パソコンにのめり込むきっかけができた。

それは「初恋」である。

当時、好きだった同級生が「教えて欲しい。」「何だかエラーが出た。」と言われる度、その子の席に飛んでいき、あれこれ教えた。「彼女にもっと頼って欲しい。」という気持ちは、よりITを勉強するモチベーションになっていった。

今思い返せば、中学生の恋愛など、当時は女子へ話しかけるのも恥ずかしい位、奥手だった自分が、クラスの中で誰よりも優位点を見いだせる事、そして、彼女と会話する機会が生まれる事、最高のモチベーションとなった事は間違いない。「勉強すれば彼女と話ができる。」という、ある意味正しいようで変な着眼点が、私の心を高ぶらせていた。

彼女と二人きり。私がパソコンを教える間は、まるでデートをしている気分だった。

こうして、中学生となった私のパソコン熱が高い事を知った祖母は、孫への投資として、中学校に導入されているものと同じパソコンを購入してくれた。それも、PC-9801BX2。学校のPCの後継機である。父と母は、色々なソフトを購入し与えてくれた。多目的教室にあるLANはない(スタンドアローン)のだが、学校と同じ環境がある事だけで、とても嬉しかった。

 そして、高校生へ進学する。元々、私は地元から出て、札幌をはじめとする、情報処理に関わる学校へ進学したいと思っていた。しかし、父と母の勧めにより、地元の高校へ入学する事となる。私は、父と母の立場を思うと、地元の高校へ進学するしか選択肢がないように思えた。親は札幌へ進学するのはまだ早いと反対したが、自分は反抗する事なく、地元の高校を選んだ。

 親に忖度した瞬間だった。

 今思えば、正しくは、反抗しなかったのだから、忖度ではなく、本位だったのかもしれない。本当は、正しい選択だったと思う。その頃、東京で仕事をするなど憧れでしかなかったのだが、地元に残った事で、今の自分がある、もう一つの原体験を得る事になった。

 高校に導入されていたパソコンは、NEC PC-9801DXという、中学校より古いパソコンだったが、後に購入したMIDI音源を持ち込み、音楽(DTM)に明け暮れた。ただ譜面を入れるだけだったが、当時、ゲーム音楽の譜面が多数出版されていた事もあって、自分なりにオルゴール風なアレンジ、ピアノ風のアレンジをして楽しんだ。

PC-9800を使い倒した(と思い込んでいた)頃、新任で赴任してきた理科の先生が、大学の卒論で使って以来、特に利用する事のないといって、個人所有のMacintosh PowerBookを貸してくれた。中学生の頃、Photoshopに憧れた自分が持てなかったパソコン。Photoshopはなかったが、思う存分、PowerBookを使い込んだ。

 高校に入学してしばらく経った頃、父を通じて、実家の教育委員会からお声がかかる。ある方にワープロを教えて欲しいとの依頼であった。父は息子が役に立てばお受けすると答えたようだ。父の知り合いだという方。私も、自分の知識が人に教えられるなら嬉しいと思い、喜んで引き受けた。

その方(ご主人)は、ご高齢で、既にお仕事を定年退職しておられたのだが、趣味として俳句・川柳を書かれていて、ある先生へ送られる事を日課とされていた。その先生へ往復葉書で作品を送ると、先生の方で返信葉書を添削して送付してくれるというもので、先生が指定の書き方で、同じ作品を、往信面・返信面、両方に書いて送る必要があるそうだ。長年、ご主人と先生は添削をする関係であられたようで、創作意欲は変わらず湧いており、沢山の俳句・川柳を思いついておられた。

そこで、ご主人は、ある教育教材と共に、指定されたワープロ専用機を購入し、勉強を始められた。最終目的は、両面葉書に句を書いて投函する事。齢60代にしての挑戦である。一生懸命、教育教材に書かれている操作方法に沿って勉強を進めるのだが、いつまでたっても葉書への印刷方法が書いておらず、俳句・川柳を葉書へ印刷して先生へ送る事が出来ずにおられたようで、かつ、プリンタに書かれている「はがき」の文字を見て、葉書に印刷したいと思いを募らせておられたそうだ。

その事を、教育委員会の方がお聞きになり、父へ説明係を打診をしたようだったが、父も多忙だったからか、息子である私が代打として、ワープロを教える事となった。

初めてお伺いした所、ご主人は、一文字ずつ、かな打ちで文字を入力され、変換する操作までは覚えておられた。父からかな打ちで教えられていた自分としては、操作方法を教えるのは何ら問題ない。しかし、ご主人は打ち込んだ作品をプロッピィディスクへ保存したりできず、毎回消しておられたそうだ。

 1日目は、まず、作品を打ち込む事、そして、フロッピィディスクへ保存する方法を説明し、ご主人に覚えて頂いた。作品をフロッピィディスクへ保存する際、文書名を決める必要があるのだが、今までは同じ文書名にしていた為、上書きされて、せっかくの作品が残らない状況であった。私は「その句を書いた日を名前にして記録して下さい。」と説明した所、すぐにご理解を頂いた。「文書名」を決めるのは、操作方法が分からない方にとっては難儀な事だが「作品を考えた日」であれば、なんら苦はないし、理解しやすいと思ったからだ。

数日後に再訪し、フロッピィディスクに正しく保存されているか確認した所、正しく保存されている事を確認し、ホッとしたのだが、私自身は、ご主人に初めてワープロを教えた日以降に書かれる、新しい作品だけが記録されていると思っていた。しかし、フロッピィディスクの半分の容量(1MBのフロッピィディスクである為、約500KByte)も記録されている。どうやら、ご主人は、私が再訪するまでに、過去の作品も入力しておられた。「これで沢山の句を書いても記録できる。」と喜んでおられた。ご主人が今までプロッピィディスクに保存できなかった、ご記憶の中にある作品が、すべてデータになった瞬間だった。

次は、往復葉書への印刷だ。お使いになっていたワープロは、元々の機能で両面葉書へ印刷できる機能がある。前述の俳句の先生から、葉書1枚につき一作品のみ記載するよう指定があった。しかし、毎回、新しい作品を執筆する旅に、葉書印刷をする書式設定をしては操作が煩雑になると思い、往復葉書用の雛形を作成しフロッピィディスクへ保存した。これからは、その雛形を呼び出し、作品を書き、執筆した日を文書名にして記録し続ければ作品は保存されるし、そのまま印刷を実行すれば、葉書に指定した内容が印刷される。これを繰り返す事で、往復葉書へ印刷できるように事前準備をしておいた。

雛形をご覧になったご主人は喜んで「やっと先生に句が提出できる。」と一声。早速、過去の作品から数点選び、印刷し、投函した。

一週間後に再訪すると、ご主人は嬉しそうに「先生から添削が帰ってきたよ。」と葉書を見せて頂いた。返信葉書に赤文字で添削された内容と、先生のお名前の印が押してあった。ご主人が葉書を見てお喜びになられているのを見て、奥様も大変喜ばれた。その後、ご主人は教育委員会へもお伝えになったらしく、教育委員会からお礼を受けた父も母も喜んでくれた。

それから、毎週、ご主人へワープロを教える日々が続いた。ワープロの操作技量が上がり、少しずつ、入力する速度も上がっていった。

その後、ご主人とは、大学生の時代も含め、6年近くのお付き合いをする事となる。私が進学して札幌で一人暮らしを始めると、ご主人と奥様も、時を同じくして、近隣の町に転居(ご家族の為だったと聞いている)された。週末、ご主人の住む街へ伺い、実家の頃と変わらぬ方法でワープロを教えた。授業の後、奥様からも気遣いを頂き、夕食を頂いて帰宅するようになる。こうして、ご主人へワープロを教えるのは、仕事で東京へ赴任するまで続いた。高校を卒業した頃、すでに一連の操作もできるようになっており、私から教える事など無かったのかもしれないが、ワープロの操作で困りごとがあれば、いつでも呼んで頂いた。ご主人は、最初利用していたものより高性能なワープロを買い替え、作品を作り続けた。

ご主人と奥様とは、ワープロを教える関係を超えて、祖父・祖母の家へ遊びに行くような状況だったが、訪問する度に喜んで頂ける為、嬉しくて通い続けた。高校生の頃、祖父が他界した私としては、第二の祖父・祖母だと思っている。ご夫妻には、私自身を孫のように可愛がっていただいた。

ご主人の作品は、先生の添削をもらいつつ、北海道の地元紙である北海道新聞の俳句・短歌のコーナーに何度も掲載された。その後、句集を自費出版する事を目的に執筆を続けられ、句集を二冊も出版された。その内容は、身近なものから、戦中の内容など、心打たれる作品ばかりであった。

後に奥様から、ご主人は、「ワープロを覚えた事で、生きがいを見つける事ができた。」と喜んでおられたそうだ。高校生のような若者が、拙いながらも説明したワープロの技術が、ご主人の「生きがい」と言って頂けた体験は、後の自分に大きく関係する原体験の一つとなった。

(続く)


 

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