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【1】仏教と僕(中村元癸)との出会い


・・・はじめにお断りしておくと
この記事は、宗教や仏教の解説ではない。
あくまでも僕の自己紹介である。

この記事では宗教の専門的な解説は一切していないが、僕自身と宗教の関係性が深いので、記事の最初の方では便宜上いろいろな宗教の流れも書かせていただく。

日本の宗教と仏教はその関係が深いが、諸説あることを前提に、解釈を挟まずに事実をそのまま記載するように努めた。

僕自身が仏教徒である以上、特に仏教の解説をする際、事実から逸れてしまうことは絶対にあってはならないからである。

まずは自己紹介から

中村元癸です。仏教僧です。インドのサンスクリット・カレッジと同じ理念の学習塾の運営をしていて、若者の支援をしてます。昔はスポーツトレーニングの研究・開発をしてました。今は日本人や外国人に仏教を教えている者です。

https://note.com/nakamuragenki/n/nf9b73a29bb11

僕が生まれた場所

世界遺産にも登録された修験道の聖地「吉野山」。ここからほど近い川のほとりの病院で僕は生まれた。

吉野山は奈良盆地の南、大峰連山より延びる尾根、金峯山上につくられた宗教都市である。

2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。

世間では宗教都市よりも"桜の名所"として有名である


ここには、役小角(えんのおづの)によって開かれたとされる修験本宗の総本山、金峯山寺を中心とした寺院、古社が散在している。現代では一応、修験道の聖地とされている。僕は生まれてから18歳までこの地域で暮らし、いろいろなことを学んでいた。

ちなみに、修験道というのは知らない人も多いと思うので簡単に説明するが、"山伏"の格好で山に入って修行をする。もともとは中国や朝鮮から入った仏教の流れをくんでいたが、7世紀当時の神道や山岳信仰などと融合された。現代では仏教と異なる部分も多い。

山中を歩いて修行する


しかし、開祖である役小角は仏教を志し、9歳で出家して「役優婆塞(えんのうばそく)」と呼ばれた。
※ 本来は、優婆塞というのは在家の修行者という意味を指す upāsaka というサンスクリット語(パーリ語も同じupāsaka)の漢訳であるが、7世紀の日本においては少し意味が異なる。

役小角は、7世紀末に奈良県の葛城で生まれたとされ、7歳頃から仏教を志したとされる。また、道教の修行などによって様々な超能力を身につけられ、走ると野生の鹿よりも早く、鬼神を操り、空を飛び、富士山や唐(中国)まで行って修行されていた。

役君小角伊豆島ニ流サル。初メ小角葛木山ニ住シ呪術ヲ以テ外ニ称サル、従五位下韓国連廣足初メ師ト為ス、後其ノ能ヲ害イ、讒スルニ妖惑ヲ以テス。故ニ遠処ニ配ス、世ノ相伝ニ言ク、小角能ク鬼神ヲ役使シ、水ヲ汲ミ薪ヲ採セ、若シ命ヲ用イザレバ即チ呪ヲ以テ之ヲ縛ス。

続日本記の文武天皇3(699)年5月24日の条

役小角は仏教を篤く修行した仙人であるという旨の記述が今に残っているが、現代では修験道の開祖として尊敬されてる。

仏陀釈迦牟尼やイエスキリストなどの世界宗教の開祖や、日本では空海や安倍晴明などの宗教者として超有名人物と比較すると、比較的マニアックな部類で認知されている。

ただ、少し古いが葛飾北斎や司馬遼太郎の本にも出てくるし、知名度は高く、割とポピュラーである。他の本や小説などの登場人物にもなっている。(近年ではゲームなどのモデルにもなっているようである。)

役小角は【役行者(えんのぎょうじゃ)】として有名であり、実は日本の文化(古来、奈良や京都は日本の中心)にも大きく影響を与えていたと考えられている。実際に役小角は当時の天皇や中臣鎌足などの時の権力者から大いに称賛されていた。

話はすこし逸れるが、
日本の歴史上では欽明天皇や推古天皇の頃から仏教に帰依をし始めており、後に続く歴史上の上皇は仏教に帰依して出家するケースが多く、35人の法皇がいた。(天皇が退位し、上皇となり、出家すると法皇と呼ばれた)そもそも日本において天皇家(神道)や朝廷と仏教とは切っても切れない関係性にあり、江戸時代までそれは続いた。

左は推古天皇。右は聖徳太子

むしろ、政府が神仏分離政策を推し進めた明治以降から現在までの天皇家は異形に模様替えされているといえる。したがって、"自分の見ているものが全て"とか"当たり前"とは考えない方がいい。常識という偏見に縛られてしまうからである。



話を戻すが、役小角は大峰山で仏道修行をされ、金剛蔵王大権現と出会うほどのレベルに達していたと伝えられている。

金剛蔵王権現

このように、役小角ご自身は素晴らしい力を持っていらしたが、修験道自体は、明治期の神仏分離と廃仏毀釈によって壊滅的なダメージをうけて、今に至る。

僕が生まれた地域

僕の生まれ育った吉野という地域一帯は、標高1000メートル級の山々が連なる紀伊山地の近所である。ここは大自然に囲まれていて非常に綺麗なところである。

吉野山からオレンジ色の縦線のところが紀伊山脈

紀伊山地は太古から自然崇拝などの信仰が盛んな地域である。だから、そこらへんにお散歩にいくだけで世界遺産を目にするし、もうちょっといけば超有名な寺や修行場もある。つまり、僕は生まれた時から宗教の歴史に触れていた。

また、車で北に15分も飛ばせば、明日香村(=飛鳥)などがある。僕の遊び場だった奈良県南部は日本人なら誰でも学校の授業で習う大和政権発生の本源地。いずれにせよ、ここは日本史の中でも特に重要な役割を果たした地域ともいえる。

石舞台古墳もわりと近所にある


・・・そんな中にあって、
当たり前のように歴史と大自然と触れ合っていたが、時代の流れだろうか。自然環境の変化や気候の変化は目に見えて大きかった。

僕が生まれたころにはすでに森林伐採や宅地開発が盛んだったので、それまで鬱蒼とした山林がいつの間にか重機が並ぶはげ山に変化していたり、住宅街の開発や50万ボルトの高電圧鉄塔建設や商業施設建設などによって環境の変化が目に見えていた。それらに反対する大人たちも多かったが、行政や企業が地域住民の反対を押し切って開発を進めていった

汚染の問題についても山間部でも違法投棄などは当たり前にあったし、自分の遊び場である美しい自然がどんどん汚染され、破壊されていくのを幼少期きかけて 目の当たりにしていた。

僕の遊び場だった近所の河川「吉野川(紀の川)」には、ものすごい量の汚水(家庭排水や工場排水)が流れ込んでいるのを目にすることが多かったし、大型のプラスチックゴミが浮かんだり、川底には大型の色んなゴミが沈んでいる。それらを見る度に非常に心が痛んだ。

その影響だろうか。河川の水質汚染は僕にとってはかなり深刻な問題として切実に考えていた。実際、川の水の匂いは年々臭くなっていたし、例えば父親世代の頃の"鮎"の匂いと、僕世代の鮎の匂いが変わってしまっていた。近所でとれた鮎は生臭かった。

清流に住む鮎

父親世代の鮎はキュウリと同じ匂いがしたそうである。事実、もっと山間部の奥地の清流でとれる鮎は本当にキュウリのような匂いがして生臭くはない。つまり、昔の近所の河川は非常に美しかったということになる。

昭和期から平成にかけて、生き物の体臭を変えるほどの巨大な規模で汚染されはじめた時期だといえる。ぼくはその頃に生まれ、憤りのようの感情を抱いていたように記憶している。

気候の変化もあった。それは近代化の影響だろうか、世界レベルでの地球温暖化の影響だろうか。例えば、僕の父親世代(昭和)ならば冬は膝くらいまで雪が積もっていた。しかし平成に近づくにつれ、田舎でも山間部でも積雪量があきらかに減っていた。

(幼少期の)僕なりの考え

先にも述べた通り、僕の性格は4歳とか5歳の頃から今もあまり変わってはいない。とにかく、4歳とか5歳の頃から小学生にかけて自然環境の変化を目の当たりにして、世の中の悪化を肌身で感じていた。

僕はその時(そもそも幼稚園児なので)社会や歴史の勉強はしたことはなかったが「産業やハイテク、資本主義的思想は自然環境に大きなダメージを与えるのだな」だとか、「お金が争いを生むんだな」だとか、「思想の違いで戦争が起こるんだな」だとか、幼稚園児なりにいろいろと考えていた。

だからなのか、何とかしたい!どうにかしたい!という気持ちが強かった。

もちろん、子供だし言葉も知らないし知識も何もない。パソコンもなかった。コンビニもないし、図書館も本屋も遠かった。解決策を教えてくれる人もいなかった。ただ、言葉や知識を知らずとも直感的に考えていたのだと思う。

そして小学生になった頃には顕著に考えていた。とにかくどうにかしたいという気持ちがあったので、自分でいろいろ模索していた。そんな中、たまにテレビで放映される環境破壊や異常気象などの特集を見たりする度にそのような気持ちが強くなった。

小学生の時に、なにかのテレビ番組でやっていた「納豆で水質浄化(ポリグルタミン酸の特性を活かしたもの)」などに非常に興味をもったり水質汚染改善の希望を見出したりしたが結局、小学生の子供ひとりの力ではどうしようもない。

仮に水質改善に対して ものすごいお金や労力もかけることができたところで、不法投棄や工場排水や温暖化を食い止めれるわけではない。いたちごっこになるのは子供の頭でも良く理解できた。

テクノロジーの進歩で生活が便利になる反面、家庭の中にも化学薬品がたくさん混ざった洗剤などを垂れ流していたのがわかった時には 少し絶望した。

そこで僕は「人間の生活を変えないと環境は変わらない。でも今の生活水準を変えていくのは難しい。これは、人の心が変わらない限り、解決は不可能」という具合に考えが推移していくが、明確な答えなど出るはずもないし明確な解決策など見えもしなかった。

ここまで

  • 地球の環境を守るためにはどうしたら良いのだろうか?

  • なぜ、世界では戦いが起こるのだろうか?

  • 自分が生まれてきた意味は一体どんな意味があるのだろうか?

  • ここに生まれたからには、なにか重要な意味をもって生まれてきたのではないだろうか?

  • 自分はなにかを発明して地球環境を良くしたり、世界を良くしていくために生まれてきたのではないだろうか?

などという風に考えていたが、幼い自分には なす術がなく、何もできないままこのようなことを10年以上考えていたことになる。そうこうするうちに結局、自分が生まれた理由は 19歳になるまで全くわからなかった。

以下につづく。


と、まぁいろいろ書いてはみたが、長くなるのでまた続きを書いていきたいと思う。とにかくタイトルである「僕と宗教の出会い」というのは生まれた時から身近なものであったことが上記に述べた通りである。

以下に【2】を新しく書いたので、(ちょっと飛ぶが)18歳以降の僕の生い立ちが載っている。時間が許せば続きとして見てみてほしい。(また追って【1.5】を書いてみようと思う。)

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