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自己中 な自分

この記事は初見の方に向けた自己紹介の一方で、心理分析的な要素を多めに書いてみた。ただ、分量を3000文字程度に制限したので、きちんとした心理分析は別の機会に譲る。なるべく平易な言葉で書いたので、これを見る学生諸氏には心理構造の学習の参考にしてもらえると思う。

以下は僕の5歳〜18歳までの話。
自分が「自己中」である事に気づいたキッカケとなった1つの出来事を切り取って、簡単に解説してみた。

自己中とは

自己中とは、自己中心的の略であり、一般的に何事も自分を中心に考え、他人については考えが及ばないさまをいう。自分勝手とか利己的とも近い意味を持つ。


キッカケの出来事

自分が「自己中」である事に気いた最初のキッカケは幼稚園の頃。僕が5歳の時だった。(ここから下はプライベートな話になるので、あまり書きたくはないが・・・。)

そのある日、
僕がトイレで用を足そうとしてトイレに行くと、1歳年上の女の子(6歳)2人が入ってきた。(その幼稚園は男女兼用トイレだった)

そして、
その女の子2人組が「Tくんってかわいいよねー」と言って、幼稚園内で容姿端麗な 僕と同じクラスの男の子(Tくん5歳)の事を話題にしていた。

その話題に反応して、瞬間的に嫉妬心が出た。
次の瞬間には、その2人の会話に介入して「 Tくんは実は〜〜なんだよ 」などと言って、Tくんを貶めるような発言をしてしまっていた。

この発言の時、僕は彼女らと目を合わせる事もできなかった。そこにはメタファーとして「僕の方がかわいい」というプライドもあった。(その時の心境は、ふんっ😤←というのがピッタリ)

この僕の発言を聞いた6歳の女の子2人組は そのまま黙ってしまった。
それを察した瞬間、僕はオドオドして、やけに心苦しくなっていた。後悔も伴って心が暗くなった

この数秒間の出来事で、自分が咄嗟に人を貶める発言をしたことと、それが嫉妬心だったことに気づいた。

※羞恥心を感じたり、罪悪感が生じると
オドオドして、やけに心苦しくなり、後悔も伴って心が暗くなる。

この頃から嫉妬心や自己中心のデメリットについて心に留め、自分を見つめることをはじめた。

解説(1)嫉妬の定義とは?

一般的に嫉妬とは、
男女の間で相手が他の異性をがしゃくにさわる(物事が気に入らず、不快である様を表した表現です。 )であるが、

他人が自分より恵まれていたり、すぐれていることに対して、うらやみ、ねたむこと等にも用いられる。


そして
「嫉妬」は、「妬」と「嫉」2つに分けられ、
・「妬み」 : 羨ましくて相手が憎い・恨めしいなどの感情がいう感情が"相手"に向かう。
・「嫉み」 : 羨ましく悔しい、 腹立たしいという感情が"自分"に向かう。


という具合に、感情の矛先の向かう方向にも違いがある。

・・・大人の目からこの事象を見ると、『5歳の子供が同じ5歳の子供にヤキモチを焼いているだけ』というような、一見可愛らしい行為に映る場合もあるが、
ヤキモチを焼いている当人からすると大きな出来事である。このような出来事は未来にわたってつくられる性格形成の一端になりうる。

よって、
僕はこれ以来、小さいながらに自分の嫉妬心を恥じて、嫉妬しないように心がけた。

とはいえ、まぁ、度々嫉妬心が出ることがあったが、またそれを恥じて反省を繰り返す・・・ということをしながら年齢を重ねていった。

ここまでがキッカケであるが、
以下に心苦しくなっていく過程を振り返ってみた。

以下の内容は
幼年期、少年期などの性格形成に関わる出来事であるため、ぜひ続きをみてみてほしい。

↓↓↓

自己中により、心苦しくなる過程

それまでの自分は褒められて育っていた。(褒められる=よい評判を得ることである)

特に叔母や祖母から多大な愛情をかけられていたため「かわいい」「かっこいい」「優しい」「すごい」というような事を言われて、かなり溺愛されていた。(これには込み入ったワケがある)

たとえ、
自我や羞恥心がないと言われる年齢であっても、このような経験を重ねていくことで 一つのプライド形成や感情形成の一端を担っている。


実際例として、
褒められることに対して5歳までの自分はまんざらでもなかったはずで、
「ぼくは(一番)かわいいんだ」「ぼくは(一番)かっこいいんだ」などというような自負心や自己肯定感などが形成されていった。(だからトイレの件で暗喩が働いたのだとも考えられる)

そして、これが喜びであるという学習がはじまった。

このとらわれを前提にして
僕自身は自分よりも優れた子(運動ができる子であったり、容姿が良い子であったり、目立つ子であったり)に対して嫉妬心が働いていた。

そして時が経ち
小学生になった頃には、「自己中」という言葉をはじめて知った。

この時、幼稚園時代の嫉妬心の背景が「自分を中心に考えているから嫉妬するのだ」ということを明確に理解した。

その頃、通っていた学校では
「性格が良い」という言葉が同級生の中で流行しており、一つの褒め言葉やバズワードのようになっていた。

だから僕はそれに呼応するように「自己中心的ではなく、性格が良い」人のように振る舞い、そうなっていくように努めた。(簡潔にいうと、感情的にならず、なるべく優しく接して、周りの人を不快な気持ちにさせないようにしていた。)

それに加えて、
家庭環境の中では僕に対して「自分勝手な行動」をことあるごとに指摘を受けていたので、何かにつけて「自分勝手」というキーワードには敏感に反応するようになっていた。

それこそ「人は見たいように見、聞きたいように聞き、信じたいように信じる」ではないが、カラーバス効果やカクテルパーティ効果のように。

年を経る毎に自己中にならないように慎重に気をつけ続けた。

2.自己中によって心苦しくなる構造

ところがである。

先に述べたように、
小学生に入ってすぐの頃から僕は自分の「性格が良くなる」ように心がけていたわけだが、それは高校生になっても日々努力を続けたのに、自己中心性は在り続けた。

ここで今までの話をまとめてみよう。

1:身勝手にならないように努めて、なるべく言葉遣いや心遣い、心の持ち方や行動などの日々のちょっとした部分を見つめて、できるだけ自分の感情や自分自身そのものに自制心をかけながら、出てくる感情をコントロールしつつ、努力して控えめに過ごしていた。

2:ところが、
いくら努力しても どうしても嫉妬心が出ていた。スポーツしている時や恋愛の時にはライバルとなる人が必ず現れて嫉妬心が沸いてきたし、友達と遊んでいる時や何気なくTVを見ている時ような普段のシュチュエーションでさえ嫉妬心が出ていた。

なぜ、頑張って努力しても自己中心性が在るのだろうか?

それは
結局、他人によく見られたいという自己中心性を基にした行動だからである。

自己中にならないように慎重に気をつけ続けているというのは、裏を返せば=他人によく見られたいという欲求をもち、実行している ということになる。

要するに、他人によく見られたいという自己中心性を基にした行動であれば根っこの部分は変わっていない。

根っこが変わらなければ自分のパターン(性格的傾向・嗜好など)や欲求は増大していく。

だから
自分が注目を浴びたいとか、自分のものにしたいとか、自分が一番になりたいとか、自己中心性の一端があり続けた。

自己中を治そうとしているのに、その要素があり続けることは自分にとって歯痒さがあり続けた。


このような自分を分析していく中で、
自己中心的な自分自身に対してウンザリもしたし、情けなくもなった。
ウンザリしたならそのまま努力し続けて自己変革ができれば良いのだが、
世間では逆に、自己中心性を「もっともっと」と囃し立てられ、自己中を肯定するきらいがあったため、自分の思っている事と世間で推奨されていることにギャップを感じていた。

特に、僕は幼少期にスポーツの世界に身をおいていたので勝ち負けを決する際の重要なファクターとして自己中心性を増強するように指導されていた。

しかし、
19歳を契機とし、自己中心性や嫉妬と決別するべく日常を改めてみなおし、精神修行に努めた。以下の記事には自己紹介に併せて修行との出会いについて書いてみた。

今後、また別の記事で嫉妬心や自己中についての心理構造をより明らかにしていく。興味ある方はまた見ていただきたい。

まとめ

今回の記事は嫉妬心をキッカケに自己中な自分を振り返ってみた。
振り返っただけなので浅めの分析だが、僕という人間像や人となりが少しでも伝わったらありがたい。また、学生諸氏の心理構造の学習に役立てたとしたならば幸いである。

とにかく、
僕の中では自己中心的要素というのは自分の苦しみであるため、それを超えていく訓練を日々行なっている。

まだまだ人間としての自己中心性は残るが、努力によっていずれはその要素を克服していくつもりである。


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