バルトークとシューマンについて〜雑感

バルトークの無伴奏。

それはイザイとは違う。

それはイザイ本人が「バッハは音楽を究めているがヴァイオリンを究めてはいない」と語って作った通り、彼の無伴奏ソナタはヴァイオリンを前提に...と書くと語弊がありますね...イザイの中でのヴァイオリンのテクニックを網羅しているので、ある意味ヴァイオリンありきの音楽。

一方のバルトークはもっとバッハに近い。

それはバッハの無伴奏ソナタとパルティータをブラームスやラフマニノフ、ブゾーニをはじめ多くの人が他の楽器に置き換えても音楽の価値が変わらないのに似ています。
ベートーヴェン本人が自身のヴァイオリン協奏曲をピアノ協奏曲に編曲したり、シューマンがチェロ協奏曲をヴァイオリン用に書き換えているのも同じ。

もちろん原曲の楽器とアレンジされた楽器の音域や共鳴、倍音の具合によって印象や雰囲気は多少変わるものの、音楽そのものの力を変えないで済む曲です。
※バッハのチェロ組曲をヴィオラで弾くのは大賛成ですが、移調してヴァイオリンで弾くのは曲の価値を損ねていると個人的には考えます。

こういうのはもちろんその楽器を前提として書かれていても、その楽器「ありき」ではないと言えると思います。

単純にその曲をいかにヴァイオリンで弾くか、という問題があり、創意工夫を要するところが、バッハの無伴奏が教材としても大切にされている理由です。常に複数の声部、それらの解決を意識して、左手にも右手にも、弦の選択、指の選択、弓使いの選択をしなければいけません。山ほどの方法がある。

今年やっとバルトークの無伴奏全楽章に取り組んで振り返ってみると、一番の気づきはそこでした。

バッハの無伴奏はカザルスが強調するように、フレーズは細かく、細かくと教わりました。その通りオーディションで弾いたらフレーズをもっと長く、と講評されたりもしましたが苦笑。しかし、ローカルな審査員はカザルスの域にはいないわけです。もちろんその審査では偉いんですけどね。

それはさておき。
バルトークの無伴奏ソナタを弾く際、大切だったと感じることは明確なフレーズわけ、センテンスわけ。そして解決。声部の弾きわけ。
まさにバッハでした。

シューマンが「音楽と音楽家」の中でこう記しています。
世の中ではメロディが音楽だと思われている。それだけじゃない。(意訳)
※音楽付きの人たちは何かというと「旋律」という。もちろん旋律のない音楽なぞ、音楽ではない。しかし、その人々のいう旋律とは、何をさしているかよく考えてみるがいい。あの人たちはわかりやすい、調子のよいものでなければ、旋律だと思わない。しかし、旋律にはもっとちがった種類のものがあって、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンを開けてみると、そこには幾千といういろいろとちがった節がみつかる。

音楽も文学などと同じレベルの教養にならなければいけない。(意訳)
※誰も、自分の知っている以上のことはできない。誰も、自分のできる以上に知ることは、できない。文学では、最近の傑作を知らないと教養のないものとされる。音楽でも、そのくらいにならないといけない。

メロディとしてだけ聴くと受け入れにくいところも多い。
正直なところ人前で弾いたことがない人には音が合っているかもわからないレベルの楽譜。

幼児教育、民俗音楽、ピアニストというシューマンとバルトークの共通点でとりあげたプログラムでしたが、本番を終えて加えなければいけないと感じたのは「音楽の在り方」と「音楽の父バッハ」でしたね。

リサイタルを終えて感じたことをつらつらと計画もなく書いてしまいました。最後までお読みいただきありがとうございました。




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