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自己表現は最上の自己分析だ。自分を知りたいなら「発信」しよう。


私には昔から若干シャニカマ(=斜に構える)な一面があって、学生時代に初めて出会った「自己分析」という言葉には、なんとなしに気持ち悪さを感じてました。

就職活動では、課されるエントリーシートを目にしては「ああ、、ジコブンセキ、ジコブンセキね・・」と吐き気を催しながらなんだかよく分からない文章を書いて提出した記憶があります。


今思えば、シャニカマというよりは、「自己分析」という得体の知れないモンスターから小指で弾き出された落ちこぼれ側の学生、の方がしっくりくるかもしれません。

それ故の嫌悪感だったのでしょう。最後まで「自己分析なんて、、」とクサクサしながら滑り込みで就職先がなんとか決まり卒業する、そんな学生時代を過ごしました。



しかしいざ社会に出ると、「自分が分からない」ことの弊害から、あらゆる方向からの高すぎる波に船酔いする日々が待っていました。


社会という船の隅っこでオエオエゲロゲロ吐きながら生きていたのですが、ついに「お前は何がしたいんじゃ?」と毎日、脳内の千鳥ノブが私に語り掛けるようになってきたのです。

どうやら。ジコブンセキ、君が必要になってしまったみたいだ。


今日の記事は、あの時の私と同じく船酔いでヘロヘロになってしまったあなたに向けたもの。

私たちが再起するには、どうやらまだ道があるようなのです。



自分のことを知りたい大人が出会うもの



自分のことを知りたくなった大人が出会うもののひとつに、コーチングというものがあります。


コーチングは、何か達成したい目標がある場合にコーチにモチベートしてもらうために受けるという印象も大きいと思うのですが、
「自分のこと(思考・感情)を知りたい」という思いでコーチングを受ける人もかなり多いです。


そして、私自身がその一人でした。

自分が分からなくてしんどくてしんどくてたまらなくて、私はコーチングという言葉に行きつきました。ノブが導いてくれた道が、コーチングでした。(それは嘘)


けれど、そんな風にボロボロに崩れ落ちる前に、”コレ”に自分を出会わせることが出来ていれば、もっと早くから自分の手で自分をドライブしていくことが出来たんじゃないか?と思ってもいるものがあります。




それが、【自己表現】【自己発信】です。



私個人としては、コーチングを受けることと同じくらい、いやそれ以上に、【自己表現】と【自己発信】というものは、自分を知るための近道なんじゃないか?と思っています。


コーチングを仕事にしている私が言ってしまうのもアレですが、コーチングに出会う前の自分に一度言いたいのです。


「自分を知りたいんなら、自分をとにかく何かで表せ」と。



文章、絵、音声、動画、歌、何でもいい。とにかく、自分というものを”何か”にする。「自分を表す」ことは、自分を知るための最もコスパの良い方法で、やらない手はないよと伝えたいのです。




「ああ、そうゆうことだったのか」と思えるようになる



自分を知るという過程には、必ず”他者”や”社会”の存在が必要です。

他者がいなければ、社会というものがなければ、自分というものを相対的に認識できない。少し哲学的な観点かもしれません。


ということは、自分を知る=他者や社会についても知っていく、ということになります。


自分は他者や社会とどう関わってきたのか。どんな影響を受けてきたのか。自分は他者や社会の中でどう位置づけられるのか。なぜ自分は今の思考を持つようになったのか。そしてそのきっかけは社会のどこにあったのか。


なんてことを知っていくことになります。


このプロセスって、どうも頭の中で考えているだけでは解像度が低くなりがちで、書き(描き)出すとか話し出すとか、そういったアウトプットを重ねることによってはじめて「ああ、そうゆうことだったのか」と自分でスッと理解できるようになっていくものなんです。



私は、「正しい他責」という言葉をたまに使います。

学校教育、家庭環境、経済環境、災害。一旦、”自分が悩まざるを得なかった理由”を社会的に・時代背景的に見ていくのです。

その上で、「ああ、そうゆうことだったのか」と納得し、「じゃあ、どうしていこっかね?」を考えていきます。


「ああ、そうゆうことだったのか」を知れば知るほど、自分を許せるようになるし、不思議なことに他者も許せるようになるのです。

納得は、受容の心を生みます。優しく強く、生き抜くことが出来るようになっていきます。


私は、この「納得」の過程をこのnote上で見せています。もはやライフコーチとしての発信活動にはもうおさまっておらず、自己探索をする物書きとしての自分がここに存在しています。


私にとっては、もう「生きること」と「自己表現をすること」はセットになっています。生きることとは、自分を知ること。なのです。



私たちのサバイバルに必要なものは、ナイフではなく「表現」



私はnoteでの自己発信と、(受ける側としての)コーチングを去年の5月に同時に開始しましたが、相乗効果も相まって他の人が5年かけて歩く距離を1年で歩いた感覚があります。


やはり、「自分の知り方」を知ることが出来るようになったのが大きいです。

あんなに自分ってものが分からんと悩んでいた10代・20代の時間が嘘のよう。


今のこの苦しさ・怒り・悲しみはどこから来ているのか?幼いときの記憶や、無意識下に抱えこんでしまっているものを潜り込んで救ってあげることも、怖くなくなりました。


コーチングだけではここまで辿り着けなかったかもしれません。

「書くこと」なしに、こんな風に上手に自分の感情や思考・感覚を取り出してあげることは出来なかったと思います。やっぱり、コーチングを受けるだけでは成り立たなかった領域にいる気がしています。



私はライフコーチです。自分の商売のために、コーチングを受けることの素晴らしさだけを推すこともできます。

でも、私はコーチングと同じくらい、こうやって自己表現に、自己発信に救われてきました。この感覚も、同じように伝えていかなければならない気がしているのです。


自己表現とか自己発信って、生きづらいとされるこの世の中を生き抜くために必要なスキルなんじゃないかなと思いっています。私たちのサバイバルに必要なものは、ナイフではなく「表現」かもしれません。




誰かに分かってもらえるように、自分を表現する



自己表現は、手元のメモや日記帳にしたためるのもありだと思います。しかし、” あえて ”他者に受け取ってもらえる体裁にして発信する、つまり「自己を発信する」という形にすることにもチャレンジしてみてほしいのです。



「誰かに分かってもらえるように、自分を表現する」ことで、さらに思考の解像度や具体性が上がり、自分自身もまた理解が進んでいきます。


個人的にオススメなのは文章かな、と思います。言葉の持つエネルギーは計り知れません。


自分の言葉の積み重ねから、自分の名前で自分の仕事をつくっていくことだって出来ます。

私は、noteの発信を通じて、クライアントさんから指名をもらっています。発信をしなければ生まれるはずのなかったコミュニケーションのひとつです。



「自分を知ること」「誰かにも自分を知ってもらうこと」は、今乗っている船を船酔いすることなく乗りこなすために・もしくは乗り心地のいい別の船に乗り移るために、有効な手段です。

あなたの想いを、発信しましょう。外に。



(「ライティングセッション」なるものも、やってみるか、検討中です)


中野あすか@今日は中野の盆踊り大会

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【中野あすかについて】
替えの利かない、「ただの話し相手」として。個人でライフコーチをやっております。クライアントさんとお話ししたり、文章を書いたり、ラジオでひとり喋りをしたりしてのんびり生きています。

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