この世界の片隅で朽ちていく男達の決意

性的魅力圧倒的強者の意見
先日、居酒屋で知り合った松山ケンイチ似のイケメンの知人と恋バナ的な話の流れになった。僕は相変わらず彼女がいないので、数々の恋愛マニュアルで読んだ戦略の話をしたんですが、
「女性は誰とパートナーになるか、誰の子供を出産するか決定権を持っているのだから、それに対抗するにはとにかく数多くの女性にアプローチするしか無いんだよ。」
と僕が言うと、

「そういう考え方だったらアフリカとかの発展途上国に行ってパートナーを探した方がいいんじゃないですか」

「セックスは心の交流の手段のひとつですよ。」

彼はそう返しました。

「そうか・・・、君と僕とでは男として、人間として、立っているステージが余りにも違うんだね・・・」

「そんなことないですよ。みんな一緒ですよ。」

こんな会話をしました。
正直、少しショックでした。
彼は僕に対してお説教してやろうみたいな意図はおそらく欠片も無かったでしょう。しかし、女性にモテる男と、モテない男が相対した時に発生するテンプレのようなマウンティングを実際の人間関係で体験してしまったのです。

しかし何故彼と僕との間に、ここまで大きな恋愛観の隔たりが出来てしまったのかを冷静に考察すると、何か見えてくるものがあるのかもしれません。

「デートとはチューニングである」
僕が今まで読んだ恋愛マニュアル本の中に「恋愛メディアがひろってくれない 童貞の疑問を解決する本」というものがありました。この本は制作者であるAM編集部という恋愛系のweb記事を連載している女性陣が、恋愛経験に乏しい男性の疑問に(極めて上から目線で)答えていくという形式の本なのですが、この「童貞の疑問」というのも微妙に偏っていて、「いくら恋愛経験皆無な男でもそんな風には思わないだろ・・・」とツッコミを入れたくなるような箇所も結構ありまして、僕個人の感想としては、
「ゴミみてえな本だな」
というのが正直な所です。しかしそんなゴミみたいな本にも参考になる記述が僅かながらに存在して、それが「デートはチューニングである」という旨の記述です。

「何回デートすれば付き合えるんですか?」という疑問に対して「デートは回数じゃない。チューニングだ」という解答を出していました。
n回のデートを重ねれば交際が可能という訳ではなく、デートの中で、お互いの考え方やフィーリングの波長をチューニングできた男女が交際に至るのだということを説明していたと思います。なるほどそれは得心です。意識の波長をチューニングしてお互いが居心地の良さを感じれば交際に発展するのは自明の理。じゃあどうすればそのチューニングってのが上手にできるんだっつーの!?ということに関してはほとんど記述が無かったんですが。おそらくここが、モテる者とそうでない者の境目なのだと思います。

生理的嫌悪を覆せるメリットを提示できるか
全ての人間は、自分のメリットになる選択をします。
小学生が「コイツと一緒のチームになればサッカーで勝てるぞ」ということから、会社の人事が「彼は優秀そうな人材だ。採用してもいいだろう」なんてことまで、そこまでの直接的な利害が絡まなくても、一緒にいて楽しい、心地良い人間と一緒にいたいと思うのはあらゆる人間の根源的な感情です。恋愛も例外ではなく、というより恋愛がその最たるものなのかも知れません。
おそらくモテる男性というのは、女性と一緒にいて居心地が良いと思わせる意識のチューニングを無意識の中で行えるのです。このコミニュケーションに費やす精神的リソースの差が、モテる男とモテない男の世界観の違いの源泉になっているのでしょう。

男性が女性に「僕と付き合ってください」「結婚してください」というアプローチは、どうあがいても「僕とセックスしてください」の遠回しな言い換えになってしまいます。それは否応にも女性の防衛本能を喚起して、自分にアプローチしてきた男性に対して「人間として信頼できるか」「生理的にアリかナシか」等の判断を迫ります。男女の関係が発展するためには、そのある種の生理的嫌悪を突破しなればならないのです。
具体的には、その男性と交際して得られる種々のメリットが、性的関係を想起した際の生理的嫌悪を上回らなければならないのです。
モテる男性は、この「交際した際のメリット」の一つである居心地の良いコミュニケーションを常時発動できるパッシブスキルを持っているに違いありません。女性にモテる男性はもしかすると念能力やスタンドのような常人の目には視えないスーパーパワーを持っているのではないかと僕は長年考えていたのですが、その正体がコレだったのです。
日常生活の中でコミニュケーションに苦労している男性はこの「居心地の良さ」を女性に提供することが極めて困難です。つーか僕のことです。これに対抗するためには、

①容姿や経済力などの、コミュニケーション以外の「交際した際のメリット」を提示できるようにする。
②とにかく試行回数(女性にアプローチする回数の分母)を増やして運良く自分を生理的にOKと思ってくれる女性を引き当てるまで頑張る。
③男性がアプローチした際の危険信号センサーが壊れている女性(ヤリマン、メンヘラ等)を狙う。

①が最も女性に誠実でしょうが、なかなか実現の可能性としては厳しいですね。③は論外として、②が一番具体的な行動として実行に移しやすいのではないでしょうか。巷に出回っている男性向け恋愛マニュアルの根本はほとんどコレです。

周作の決意
「昔は人口のほとんどが結婚していたのは女性の権利が踏みにじられていたからだ」なんていう意見を耳にしたことがないでしょうか。その可能性は否定できません。社会的圧力によって意に染まない結婚をした女性もいるでしょう。でもその反対側で、幸福を得た男性だっていたに違いありません。

https://www.youtube.com/watch?v=kczb7IJJg0g

「この世界の片隅に」という戦時中の映画で、主人公のすずさんは家同士の取り決めでほぼ初対面の周作と結婚します。物語の後半、不発弾の爆発によって、ずずさんは右手を失ってしまいます。当時は女性が家庭内の労働力だった時代ですから、利き手が不具になってしまったすずさんは嫁ぎ先の周作の家でもいづらくなってしまいます。自暴自棄になってしまったすずさんは、再びの空襲で戦闘機からの機関銃が飛び交う中で屋外へ飛び出してしまいます。それを周作は自らの危険などかえりみずに追いかけ、そして「実家に帰らせて下さい!」というすずさんを説得します。
「この世界の片隅に」は戦時中の人々の生活や文化を精緻に描写した歴史的資料としての価値を評価される声もありますが、僕個人はすずさんと周作のラブストーリーだと感じました。本当に、なんて美しいラブストーリーだろうと思ったのです。
恋愛結婚が主流の時代であれば、すずさんと周作は結婚しなかったかも知れません。しかし女性の自己決定権が無い時代だったからこそ、周作の「自分はすずさんと一緒にいる」「すずさんを大切にする」という決意が通ったのです。

現代社会において「この女性と結婚したい」「大切にしたい」と男性側がいくら重い想いを燃やした所で、その感情を恋愛という文脈に変換して伝える技術を持たなければ、単なる男性のひとりよがりな感情の押し付けになってしまいます。下手をすればセクハラ扱いで社会的に叩き潰されてしまうでしょう。女性の権利を尊重するのは大切なことですが、それは「男性から女性を愛することの社会的正当性」を奪うことと隣り合わせなのかも知れません。

僕の人生の自己受容と恋愛
ここまで長々読んで下さった方の中には
「色々理屈をこねてるけど、お前に彼女ができないのは要はお前の努力不足で自業自得だろ」と思う方もいらっしゃるでしょう。高校からずっと付き合いのある友人にもそう言われました。
僕は子供の頃からコミュニケーションに難がある人間で、それでも人間関係をヘタクソながらも頑張ってやってきました。運良く友人にも恵まれて、バイト先でも怒られながらも可愛がってもらって、勉強もそこそこで、アラサーにしてやっと「人生」ってやつを、ちょっと上手くこなせるようになってきたかなって感じなんです。点数にして60点ぐらいの、及第点を自分で自分の人生にあげてもいいんじゃないかなって、最近やっと思えるようになってきたんです。
でも「恋愛」だけはそうじゃない。
「趣味」、「友人」、「健康」、人生の他のほとんどのカテゴリーに60点オーバーの及第点をあげられるようになっても、「恋愛」だけはずっと0点のままだった。キーファのMPとかヌケニンのHPみたいに、いくらレベルをあげても絶対に成長しない。
それはきっと、「恋愛」だけが完全に他者軸の評価だから。どんなに自分で自分の人生を評価したり自己受容しても、女の子にはそんなの関係ない。女性にメリットや「快」の感情を提供できない男は、容赦なくぶった斬られる。

車椅子に乗ってた人がリハビリを頑張って松葉杖で歩けるようになっても、サッカー選手にはなれなかったみたいに、コミュニケーションが苦手な僕が頑張って社会に適応しても、恋愛はできなかったんだよ。くそう。

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