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虫愛づる日々

 あれは去年の10月半ばすぎくらいのことだったと思う。
 ある朝、いつものように早めに出勤し、昼ごはんを調達しておこうと会社の近くにあるコンビニへ続く街路を歩いていた。

 秋の澄んだ朝陽に照らされたレンガ敷きの地面の上を何かがモクモクと這っている。目の覚めるような鮮やかな緑色をしたその小さな生き物はイモムシだった。子供の頃から虫が大好きだった私はそれがアオスジアゲハの幼虫であることにひと目で気づいた。いくら虫好きとはいえ、いい年の大人が出勤途中に嬉々として青虫を拾うわけにはいかない。そう思って一度は通り過ぎた。

(でも、あのまま道の上を這っていたら、そのうち誰かに踏みつぶされてしまうかもな……。踏みつぶされなかったとしても、無事に木にたどり着いて葉っぱの上に戻ることができるのだろうか……? 鳥に襲われたり、蟻の群れの餌食になったりしたら……)

 そう考えなおすと、もと来た道を戻って地面にしゃがみ、幼虫をそっと摘まみ上げ、掌に包んだ。立ち上がって歩き出すとコンビニへ入店した。

 片手が塞がっていたために会計を済ませる際に財布からお金を出すのに苦労した。だからといって、閉じていた手を開いてレジに立つ店員さんに青虫を見せて驚かせるわけにはいかない。これはあくまで行きがかり上発生した人命ならぬ「虫命救助」なのであり、イタズラと勘違いされてはかなわない。

 なんとか会計を済ませ、食料の入ったエコバッグを手に会社にむけて歩き出す。その道すがら、そっと握っていた指の間から幼虫が這い出て、私のジャケットの袖を登り始めた。その元気な様子に面食らいながらも、「おーい、どこ行くんだよ」とツッコミつつ微笑んでしまう。

 幼虫を腕に乗せたまま社屋に入ると、同僚たちと挨拶をかわしてオフィスへと上がった。自分のデスクの引き出しを開けると、仕出し弁当屋で以前にもらった味噌汁用のプラカップを取り出し、ひとまずその中に幼虫を入れた。

(さて、連れてきてしまったものの、餌になる葉を確保しなくては……)

 さっきまで私の腕を元気に這い回っていたのが嘘のように、幼虫はカップの底でじっとうずくまっていた。
 

 蝶の幼虫は種類によってそれぞれ餌となる食草が決まっていて、それ以外の葉はどんなに飢えていたとしてもいっさい食べない。我々人間のように「レタスがなければキャベツを食べたらいいじゃない」というわけにはいかない。アオスジアゲハの幼虫の主な食草はクスノキの葉であり、それは人類がこの地上を我が物顔で闊歩する遥か昔から変わらない。

 幼虫を仮の宿であったプラカップからペットボトルの飲み口を切り落として作った簡易飼育ボトルへと移す。幼虫はしばらく落ち着きなくボトル内を動き回っていたが、やがて疲れたのか、再び動きを止めた。

(餌になる葉をなんとか確保しないと……)

 朝にコンビニで買った昼ごはんをいそいそと腹に収めた後、幼虫を観察しているうちに昼休みが終わった。
 
 デスクワークをしながらつい気になってチラチラとボトルの中を覗く。
 相変わらず幼虫は葉の上でじっとしたままだった。朝方は私の手の中から這い出て袖を登るくらい元気だったのだから死にかけているとは考えづらい。たぶん寝ているのだろうと思い、仕事に集中することにした。


 その年は暦の上で祝日が金曜日にあたるために三連休となった。連休中に飼育ボトルを社内に放置するのも不安に感じて、木曜日に自宅へ持ち帰ることにした。自宅の目と鼻の先に神社があり、そこには大きなクスノキが何本か生えているので、幼虫の食料となる葉を分けてもらうことも期待できた。

 仕事を終えると飼育ボトルを手提げのビニール袋に入れ、幼虫が酸欠になってしまわないように注意しながら満員電車に揺られて駅に着いた。帰り道に通りかかった近所の神社でさっそくクスノキの葉を頂くことにした。神主さんに事情を説明して許可をもらい、境内にしなだれかかるように伸びていた枝から葉を何枚か切り取った。

 途端に風が梢を揺らす音がゴウッと響き、私の頭に何かがコツンとぶつかった。不意に誰かに頭を小突かれたように感じ、ギョッとして飛び上がる。頭の上に落ちてきたものを手に取って街灯に照らして眺めた。それはクスノキの黒い実だった。
 
 翌日の昼すぎに図書館へ本を返しに行った際に神社の脇を通ると、昨晩に葉を拝借したクスノキの幹に御神木を示す紙垂(しで)が巻かれていることに気づいた。私の頭を打ったあの黒い実は御神木からの戒めの一撃であったのだ。私はクスノキを横目に見ながら思わず心の中で釈明する。

(昨晩あなたの腕から葉を何枚か切り取ったのは故意に傷つけようとしたわけではなく、小さな命を養うためにやむなく頂戴したのです。ですから神罰や祟りはどうかご勘弁ください)と……。
 

 御神木の祟りに怯えながら葉を手に入れたにもかかわらず、幼虫はその数日後には葉をかじることをパタリとやめ、飼育ボトルの中を落ち着きなくグルグルと動き回るようになった。どうやら蛹になるのに最適な場所を探しているらしい。やがてボトルのてっぺんに蓋として付けていたガチャガチャのカプセルの真ん中で体を縮めてじっとしていることが増えていった。

 数日後に朝の気温が下がり始めると幼虫が口から糸を吐いて自らの体を固定し始めた。ついに蛹になる時が来たようだ。全身が深緑色から透明感のあるメロン色へと変化する。

 その翌日に会社から帰宅すると、幼虫は角の生えた葉のような不思議な形をした蛹になっていた。狭いペットボトルの中では羽化した際に翅を傷めるおそれがあったから、納戸の中で埃をかぶったまま放置されていた熱帯魚用の水槽に移した。幼虫の吐いた糸でガチャガチャのカプセルに固定された蛹を取り出し、水槽の蓋に針金で吊るした。あとはこのまま来年の春を待てばいい。

 どうにか蛹化まで漕ぎつけてひと安心した。もう餌は必要なくなり、神社の御神木に睨まれながら枝葉を頂いてくる必要はない。

 だが、次に心配するのは幼虫が他の昆虫に寄生されていないかという点だ。自然界には蝶の幼虫に寄生する蠅や蜂がいる。産み付けられたそれらの卵が羽化する蝶よりも先に蛹の中で孵り、肉を食い破って外へ出てくるのだ。寄生された蛹には病巣のように黒い斑点が浮かび上がる。蛹にはなったものの、その斑点が浮き出てこないか気が気でなかった。

 それからさらに一週間ほどが経過しても斑点は出ることなく、蛹はエメラルド色のまま輝いていた。それはまさに命の宝石だった。

 おおげさに聞こえるかもしれないけれど、無味乾燥で退屈な自らの人生に突如として生きる潤いが与えられたような気がした。見返りなど期待しない無償の愛を捧げられる対象ができることで、人はこれほどまでに心穏やかで満ち足りた気持ちになれるものなのかと内心驚いてもいた。

 
 ところが、である。
 ようやく心穏やかな日々が訪れたのも束の間、てっきり翌年の春になるまで羽化することはないと思っていた蛹に異変が起きた。

 寄生虫が体内にいる証拠として蛹の表面に浮かび上がる斑点と違い、若葉色だった蛹全体が日を追うごとに薄黒くなっていった。電灯に照らしてみると、蛹の中に蝶の体ができつつあった。翅にあたる部分にはアオスジアゲハの特徴ともいえる浅黄色の帯状の模様が目立ってきている。明らかに羽化が進行していた。11月も既に下旬になろうというこの時期にどうして……?

〈アオスジアゲハ 羽化 11月〉とキーワードを入力してインターネットで検索すると、アオスジアゲハの幼虫の飼育を趣味にしている人のブログがヒットする。ページを開いて読んでみると、どうやらアオスジアゲハは温かい室内で飼育していると越冬することなく羽化をくり返してしまうことがあるらしい。室内に暖房を入れているわけではなかったが、その当時は連日よく晴れ、11月とは思えない暖かい日が続いていた。地球の温暖化による影響なのか定かではない。いずれにしても12月が間近に迫ったこの時期に蝶が羽化の準備を開始したことは全くの想定外だった。
 
 日曜日の夕方から夜にかけて蛹は急速に黒ずみ、その内側に蝶の体がくっきりと透けて見え始めた。羽化は時間の問題だった。翌朝に水槽を覗くと、既に蛹から蝶が出てきていた。まだ翅が皺くちゃに縮こまったまま、抜け殻になった蛹に細い脚でつかまっていた。

羽化したばかりのアオスジアゲハ

 これから出勤しなくてはならなかったから、空に放つ暇がない。前日(日曜日)の昼間に羽化していれば速やかに旅立たせてあげられたのになんともタイミングが悪い。後ろ髪を引かれる思いでいつもの時間に家を出て駅に向かった。
 
 会社から帰宅すると、水槽の曇ったガラスの中ですっかり翅の伸びた蝶が忙しなく飛び回っていた。周囲のガラスの壁に翅をぶつけて傷ついてしまうのではないかと不安になるほど蝶の羽ばたきは力強い。さっそく空に放ちたいのはやまやまだが、外は既に夜の闇に沈んでいた。夜行性の蛾なら問題ないかもしれないが、昼行性の蝶を放つわけにはいかない。窮屈で可哀想ではあるが水槽の中であともう一泊してもらい、巣立ちは翌朝まで待ってもらうことにした。

 次の日は天気予報の通り雲ひとつなく晴れた。だが風が冷たい。もう少し気温が上がってから蝶を放つことにした。水槽を窓際の陽だまりに持っていくと、閉じた蝶の翅がステンドグラスのように日の光を透かし、どこか神々しさすら感じさせる緑光を放った。その光に目を細めつつ、アオスジアゲハの翅は表裏で同じ模様なのだと改めて気づいた。

黒地にエメラルド色の帯模様が美しい

 午前10時を過ぎてようやく気温が上がってきた頃、水槽を抱えてベランダへ出た。相変わらず風が冷たい。もう少し風が止んで暖かくなってきてからの方がいいのかと迷ったが、自然環境は生物にとって常に優しいとは限らないのだからいつまでも旅立ちの時を引き延ばしてはいけないと思い直して水槽の蓋を開けた。

 蝶はまだ寒いからか水槽の底でじっと動かなかった。やがて太陽の光で体を温めるように陽だまりの中でそっと翅を開いた。その自然の創り出した芸術とも言える模様をしばし目に焼き付けると、私は水槽を両手で持ち、空へ向かって高く掲げた。途端に驚いたように蝶が水槽の中で羽ばたきだした。

 そうしてガラスの壁に体をぶつけながらついに蝶は青空へと飛び立った。ほんの数週間前に出逢ったときには頼りなく地を這っていた青虫は新たに手に入れた翅を懸命にはためかせて民家の上を滑り、彼方の風景の中に紛れていった。あとには無事に命を送り出したという達成感と、一抹の寂しさが残された。

 それにしても、どうしてあのイモムシがほんの短い間に美しい翅を持つ蝶に姿を変えて空へ飛び立つことになるのだろう。それは本当に奇跡のような出来事に思える。私達が普段目を向けていないだけで、何気ない日常の片隅では驚異とも呼ぶべき現象が発生しているのだ。世界は謎と不思議に満ちている。決して退屈などではない。大切なのは「もうわかっている」という目で世界を見るのをやめることなのだ。

 
 その翌日は冷たい雨が降り、真冬のような陽気に変わった。窓の外でしとしとと降り続ける雨を眺めながら、こんなに寒くなってしまって、あの蝶は今頃どうしているだろうかと心配になった。

(だからそんなに急いで蛹から出てこないで暖かくなる来年の春まで待てばよかったのに……)

 テーブルの上に置いたままの空の水槽を眺めて、ふと溜息をついた。
 
 あの幼虫にとって、私に拾われ、蝶となって寒空の下で凍えながら短い命を終えることが果たしてよかったのかわからなくなった。虫命救助などと得意になっていたが、蝶にとっては単なる余計なお節介にすぎなかったのかもしれない。

 それでも桜の蕾がほころび、鶯の囀る今日この頃、折に触れてぼんやりと空を見上げ、独り想うのだ。ほんの短い間一緒の時を過ごしただけだったけれど、あの出来たてのステンドグラスのように輝く翅に風を受けたとき、蝶はどんな気分だったのだろうかなどと……。
 
 その何とも言い表せない切なさと愛おしさを人は愛と呼ぶのかもしれない。

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