純粋演劇批判へのnote

noteにかつてのnoteを投稿する。ゲーテにとっての『ファウスト』同様、小生にとってこれがライフワークになるだろう。なお、「若い頃の妄想をたかだか後生大事に抱えているソフィスト」(カント(金森誠也訳)『視霊者の夢』講談社学術文庫、2013年、25頁)にならぬよう、細心の注意を払っている。「残りの生涯をまったくの贈り物であるように感じる」。そんな日が小生にも来るだろうか。


緒言
 純粋演劇の本来の課題は、「今日の演劇で可能なことは何か」という形の問いに含まれている。本稿は、あらゆる経験的なことを回避したうえで、演劇の根幹をなすものを見出す試みである。ところで、「経験的なこと」には、技術的なことも含まれる。こうした経験的なことはいっさいが偶然によるものである。名声を勝ち得てきた過去の劇作家や演出家たちは幸運だった。彼らは、彼らを支える俳優や裏方との偶然の出会いなしには今日まで名を残せなかったかもしれないという可能性を鑑みれば、彼らの編み出した理論やテクニックが有効性をもつのは彼らのいた場所(あのときの稽古場、あのときの劇場)に限定されてしまう。そうであるとするならば、後続の者たちは直接的にしかその理論やテクニックを継承できないということになる。しかし、いわずもがな「彼らのいた場所」は誰にでも開かれたものではない。彼らのなかには「彼らのいた場所」から出て、教育機関を設立してみたり、伝統ある大学で講義や論文に勤しんでいる者がある。しかしそれは、結局のところ「成功者の語り」にすぎないという懐疑に耐えられない。そこで、議論の普遍的な土壌を組み立てるために、一つの法廷を設けよ、というのがこの『純粋演劇批判』である。その土壌は時代に応じて不当なものがあれば、吟味されたうえで積み直される。幸か不幸か、現在日本の演劇の批判は「自然状態」である。それはある者にとってはルソー的平和状態であるし、ある者にとってはホッブス的「万人の万人に対する闘争状態」である。多くの劇評が、上演に対する単なる賛辞に陥っているのは、前者の顕現である。後者の顕現としては、特定の劇形態に一定の感想しか述べられない観客が挙げられる。いずれにせよ「自然状態」は発展を遅らせる。「自然状態」から脱して〈近代的〉土壌を組み立てること、つまり『純粋演劇批判』によって初めて「今日の演劇で可能なことは何か」という問いを準備することができるのである。さらに『純粋演劇批判』は劇評の単なる賛辞への堕落を防止し、またいかなる劇形態であっても一定の感想を述べるに留まらないことを可能にする。開かれた議論のためには開かれた土壌の上に立たねばならない。そのためには誰もが容易に共有できる了解を得なければならない。もちろん、以下に示す三つの区分は適宜変更を余儀なくされるだろう。しかしながら、何に重点を置いているのかという同意なきままに議論したところで平行線を辿るのは当然のことである。議論は一点以上の交叉によってようやく実りあるものとなる。その交叉を増やし、平行線を辿るのみの不毛な議論を減らすためにはやはり、一定の区分が必要なのである。
 演劇の研究は対象の性質によって、以下の三つに分岐する。即ち、(1)Method、(2)Material、(3)Managementである。いかなる分野の研究成果もこれら三つに整理することができるだろう。これらに優劣関係はないが、いずれかが重視された時代はあるだろう。20世紀が「演出家の時代」と言われるならば、(1)Methodが台頭したものと考えることができる。もし劇作家に最高の地位があるものと信じられた時代があるならば、(2)Materialが神聖視されたと考えることができる。21世紀現在、日本の演劇において制作者が注目されているならば、(3)Managementに重きが置かれていると考えることができる。それぞれ説明すると、以下のようなものになる。

 (1)Method 構成手法、演出技法をはじめとした、演劇を構成するもののなかで、観念や理念といった〔超感性的な〕ものを対象とする場合。
 (2)Material 演劇を構成するもののなかで、具体的物質を対象とする場合。
 舞台美術製作、音響効果、音響機材、照明効果、照明機材、支持体としての劇場、題材、シナリオ、戯曲、ストーリー、筋、俳優の肉体。
 (3)Management 演劇自体を構成するものではないが、
予算編成、公共施設としての劇場、宣伝媒体、集客方法を対象とする場合。
 
 以上のような区分に基づいて『純粋演劇批判』はその土壌を積み上げていく。もちろん、場合によっては以上の三つについて横断的な観点が必要なこともあるだろう。しかし、それは応用段階である。基礎段階の構築がここでの企図であることを付言しておかなければならない。

第一部 Method

 すべて書かれたものは豚のように不潔だ。
ーーアントナン・アルトー「神経の秤」
 わたしは読書する怠け者を憎む。
ーーニーチェ「読むことと書くこと」『ツァラトゥストラ』

 本稿、第一部の企図は、プログラムの記述である。物質の構造を説明するプログラムによって、物理学が唯物論を超越した(1)のと同じように、構造を説明するプログラムを記述する。このように唯物論を超越することによって、経験的なものや技術的なものを回避した「純粋性」を保つことができる。このプログラムの記述によって「演劇を構成するもののなかで観念や理論といった〔超感性的な〕ものを対象とする」Methodを確立できるのである。
(1)カール・ポパー(西脇与作訳)『自我と脳』、思索社、1986年、18頁。

 第一章 基礎としての美学Aesthetics
  第一節「美の定式化」
 まず、われわれは美を定式化しなければならない。さもなければ、議論は錯綜することになるだろう。かりに、若輩の提唱を反駁しようとする者がいたとしても、定式化がなければレミントン・ディスクールの撃ち合いだけが繰り返されることが関の山であろう。その衝突は痛みをもたらすが、発展は決してもたらさない。しかし独断論と蔑まれたり、懐疑論に苛まれたりすることを賢しいものほど察知して「美の定式化」を試みることは避けられる傾向にある。責任なき多元主義への逃げ込みである。
 さて、若輩による美の定式化は、以下のようなものである。

   「それが美しいのは、それがそれ以外意味をもたないからである」

 こうしてまず、一つの到達しえない点でありながら、誰もが目指すべき点が設定される。芸術一般に求められるのは、——求められるだけで、芸術作品がこのことを所有しなければならないわけではない——シンボルとして「一つ」の機能的価値をしか持たないことである。このことは芸術に手を伸ばそうとするすべての人間にあてはまる。なお、ここでの「それ」が指し示すものが、芸術ではないこともある。雄大な自然が「それ」となることもある。ただ、芸術は「美しい」という主観的述語のみを出発点とする。決して、芸術一般は自然の模倣でも、世界精神の顕現(へーゲル)でもない。
 次にこの定式から次の段階に移ろうとすると途端に二つの方向に芸術一般の空間的認識形態は分裂していく。この二つの方向とは、作者由来の認識と、享受者由来の認識である。また時間的な両者の関係についてはジンメルが以下のように述べている。「芸術作品は、完全にそれ自体で完結した、生から除外された形象であると同時に、生の洋々たる流れに横たえられてもいて、作者の側からこの流れを受け入れ、享受者の側へと放流する」(ジンメル「芸術のための芸術」(川村二郎訳)『芸術の哲学』白水社、2005年)。しかし、こうした空間的・時間的な作者と享受者の分裂や関係も、先述の定式化によって統合されている。実は、両者は一つのシンボル〔象徴〕において、同じものを目指していながら、異なる認識形態〔つまり別々の武器を用いて〕で対峙しているのである。

作者について
 批評家や分析家の牙にかみ砕かれているようでは、完成された芸術作品とはいえない。しかし、このような芸術作品はかつて一度も存在したことはなかった。すべての芸術作品は、「未完成」である。すべての芸術作品は未完成なまま提出される。
 この定式に適う芸術作品を創作しようとする芸術家たちは、「視霊者の夢」にうつつを抜かしているわけではない。芸術作品は実在するものでしかありえない。感性つまり、感官で捉えることが可能であること、これが唯一の芸術の条件である。

享受者について
 「奪い取ることが、享受者の権利であり義務である」
 芸術作品には、明らかな一つの断絶がある。作者と享受者という断絶である。この関係を問わなければならないが、作者の示すべき態度は、すでに示した。それでは、享受者のほうはどうであろうか。
 享受者は、作者に挑戦しつづけなければならない。享受者が「それが美しいのは、それはそれ以外意味をもたないからである」と口にしたとき、それは作者の勝利であり、享受者の敗北である。しかし、この闘争も今日にいたるまで終焉していない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?