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第6話 誤認逮捕、誤認起訴は冤罪ではない。

私は冤罪という言葉は非常に狭い意味で使っている。つまり最終的に裁判で有罪になった冤罪のみ冤罪と定義している。

最終的に裁判で無罪になった場合は冤罪としていない。この場合、司法のチェック機構が正常に働いたわけである。この場合を冤罪と区別するため、誤認逮捕、誤認起訴と呼ぼう。

言葉の定義の問題だから、何をどう表現しようが勝手かもしれないが、少なくとも、最終的に裁判で有罪になった場合と、無罪になった場合で、同じ言葉を使うのは良くない。はっきりと区別するべきである。

区別しないのは、逆に推定無罪の理念に反する。

推定無罪ということは、無罪から出発するのだから、推定誤認逮捕であり、推定誤認起訴である。つまり推定無罪というのは、誤認逮捕や誤認起訴を前提としている。

それをチェックするのが裁判であるので、逮捕、起訴でのミスと、裁判でのミスは全然違うレベルの問題である。

だから同じ冤罪ということばで両者を非難することは、逆に推定無罪を否定し、一般人には「逮捕・起訴=有罪」という印象を与える。

確かに誤認逮捕された方は、多大な不利益を被るのだからそれが冤罪ではないと言われると怒るかもしれない。

しかし、だからこそ、保釈制度のように、逮捕・起訴されてもなるべく不利益を被らないようにするべきでり、その重要性が出て来るのである。最終的な裁判での冤罪とはレベルの違う話である。

残念ながら今の日本の司法をとりまく状況は報道も含めてはっきりとこれを区別できていない。

これは単なる言葉の問題ではなく、本質的な問題だ。この両者をはっきり区別しないところに日本の司法非難者たちの問題点がある。

私は日本の左翼やリベラリズムは失敗していると思うが、その理由は彼らは批判できるものは何でも批判し、問題の本質がどこにあるかしっかり区別できていないからだと思う。

外国人の入管での人権を問題にする勢力がある。それを問題にするなら、その問題だけを追求すればよいのである。それなのに彼らは「これからの日本は移民が必要だ」とそこまで言ってしまう。正しいとは思うが、そこまで言ってしまうと、逆に右派の人たちの反発をくらってしまう。

左派や、リベラリズムの人たちは、理論武装が完全にできていないのに戦おうとしている。一方、右派の人たちは、お互いに情報や知識を共有し、理論武装ができているように思う。例えば、「靖国公式参拝の正当化=東京裁判の否定」のような公式がはっきりできていて、共有されている。左派の人たちは見習うべきである。

なお、私は右派ではないが、第二部の「民主主義を理解できない日本人」で左派批判をするつもりである。




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