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第3話 形式論としての推定無罪

前回見たように、推定無罪が受け入れられない背景として、それが事実とは関係なく形式論、手続き論であることも一因である。人は形式や手続きの前に「真実」を重視したがる。

いくら推定無罪を唱えたところで、「ほんとうのところはやったんだろ」と思うことである。思うだけなら、勝手である。しかし、ほんとうにやったかどうかは関係なく、形式的には推定無罪を前提としなければならない。

この考えを受け入れられるか、どうか。「ほんとうのところはやったんだろ」を乗り越えて、冷静な判断ができるかどうか。

形式論のわかりやすい例として、違法捜査の実例がある。違法な捜査によって得られた証拠は証拠として採用されない。これにしたがって、薬物の不法所持が無罪になった例がある。捜査当局は、正当な捜査令状を裁判所から取ることなく、被告のカバンを破壊し、中の違法薬物を発見したのである。

この無罪判決に対して、「違法な薬物を所持していたのは事実なのだから、無罪になるのはおかしい」という批判があった。

しかし、これを認めてしまえば、警察も検察もやりたい放題である。事実だけを重視し、形式や手続きを軽んじれば、容易に個人の尊厳など吹っ飛んでしまう。もはや民主国家ではなく、強権国家である。

もし、違法な捜査の結果、何も出てこなかったら、どうするつもりなのか。捜査はギャンブルではない。

民主国家では、手続きが真実よりも優先される。

推定無罪もまったく同じである、たとえ、被告が本当の犯人だとしても、推定無罪から出発しなければならない。裁判で決着するまでは何人も被告を裁くことはできない。ネットやメディアによる私刑などはあってはならないのである。




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