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第2話 池袋暴走事故と推定無罪

「推定無罪」というのは、頭ではなんとなくわかっていても、実際に受け入れるのは人間の心情としては難しい。それを示す好例が「池袋暴走事故」であろう。

被告が運転する車が暴走し、尊い親子の命が奪われた。当初、被告が逮捕されなかったことから「上級国民」批判が噴出した。しかし、逮捕されなかったのは、事故後入院したためであり、大した取り調べもできないなか、逮捕してしまうと、23日以内に起訴しなければならない。それなら逮捕しない方が得策という当局の判断である。これが司法関係者などから解説されると、さすがに不逮捕批判はやんだが、振り上げた拳は、被告の法廷での無罪主張に向けられた。

その批判はすさまじく、ネットやワイドショーなどで評論家、コメンテーター、芸能人、あげく弁護士まで批判するありさまである。それこそ、一億総バッシングとなった。

私が知る限り、このバッシング嵐の中で、「推定無罪」の重要性を説いたのは、杉村太蔵氏とカンニング竹山氏の二人だけである。二人とも立派である。

一般人が、感情に任せて怒るのは仕方がないことにしても弁護士までも、「自分の罪に向き合っていない」と批判するのは、ほんとうにあきれてしまう。ワイドショーの弁護士というのは、ほんとに最低だ。

かつて、「ゴーン逃亡事件」のとき、弁護士出身の法務大臣が、「無罪を証明しろ」と言って、批判を受け、こっそり「無罪を主張」に訂正したが、この国では、無罪を主張することさえ許されないのか。

「これだけの証拠があるんだから有罪は確実」は間違え

推定無罪の話をすると、必ずと言って出てくる反論がある。「これだけの証拠があるんだからやったのは確実」。

しかし、この事件は有罪確実だから推定無罪は適用されないとか、疑わしいから推定無罪を適用といったら、そもそも推定無罪の意味がない。すべての予断を排除して裁判に臨むのが推定無罪なのに、裁判前にもうすでに判決を下しているのである。

特に日本では、取り調べが完全可視化されていないので、被告が自白していても推定無罪は適用されるべきである。

そもそも冤罪というのは、「この人が犯人に間違いない」と思うところから始まる。検察だって、これだけの証拠があるから犯人に間違えないと思って起訴しているのであって、犯人かどうかわからないけど、裁判所に判断してもらおうと思って起訴しているわけではない。

栃木の幼女殺害事件冤罪では、DNA鑑定で黒と出た。さらに被告は一審まで自白していたのである。だれがどう見ても有罪であり、疑う余地はない。しかし、冤罪だった。

数々の冤罪事件は、逮捕または起訴当時はだれもが「この人に間違いない」と思って、被告をバッシングしてきたのである。しかし、冤罪が立証されても、だれも謝らないどころか、警察や検察の批判をして自分は関係ないふりをする。

池袋暴走事故では、確かに被告の運転する車が尊い命を奪ったのは事実である。しかし、車に不具合があったという主張をしているのだから、とりあえず、被告の言い分にそって検証してみるのが推定無罪の在り方である。そして最終結論は裁判によってのみ判断する。

本件被告をバッシングする人は、被害者の無念さをおもんばかるあまり言っているのであろう。確かにそれは理解できる。しかし、もっとも重要なことは、二度とこのような事故を起こさないことだ。

私は、これだけ処罰感情が盛り上がったのだから、この勢いで「高齢者の都市部での運転は安全装置のついた車に限定」のような規制が実現すればいいと思っていた。しかし、被告バッシングに終始し、このような議論は多少進展はしたが、完全な規制には至らず、将来の課題となった。残念でならない。

そもそも推定無罪とはほんとうにやったかどうかは関係ない

そもそも推定無罪という概念は形式論であり手続き論であり、実際やったかどうかは関係ない。しかし、日本人はこの形式論が実に苦手である。真実を追求しようとするあまり、形式を軽視し、結果重大なミスを犯してしまう。

実は、民主主義も形式論、手続き論であり非常に重要な概念である。次回、形式論について考える。



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