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第4話 冤罪の責任は裁判所にある。検察はそれほど悪くない。

よく冤罪が明らかになると、警察や検察への批判が集まることが多い。とりわけ、無理に自白を迫った冤罪などは、なおさらだ。

しかし、私はどうしても警察や、検察のせいにはしたくない。彼らは国民の信託を受けて、憎き犯罪者を捕まえて、有罪にするという使命を忠実に果たしているのである。日本の警察官は買収などに染まることもなく正義感がとても高い。

その信託にこたえるため、許される範囲内で最大限のことをするのは当たり前である。

したがって、取り調べなどでどうしても暴走してしまう。問題はそれを許してしまうシステムにある。それは密室で、一部事件を除いて、記録もされず、まして弁護士の立ち合いもゆるされない。自分は司法のプロであり、相手は素人である。しかも、異様に長い拘束期間。こんな状況を許しているシステムに問題がある。

冤罪は、裁判官が「疑わしきは罰せず」の理念を忘れた結果おこるものであり、ほぼすべての責任は裁判所にある。

自白の強要も、裁判官が密室での調書を信じすぎるあまり起こるものである。裁判所が、「密室での供述調書など信用できない。」「弁護士の立ち合いのない供述調書など信用できない。」と証拠採用しなければ、検察だって、自ら取り調べを録画したり、弁護士の立ち合いを要求したりするだろう。あるいは供述以外の証拠を重要視するはずである。何も新たに法律を作る必要はないのである。

なぜ、日本の裁判官が、そこまで供述調書にこだわるのかは不思議でしょうがない。供述調書といっても、被疑者の言葉を一言一句、そのまま記録したものならともかく、あれは、検察官が書いた作文である。それに被疑者がサインするかどうかの話である。

それが公判で、被告自ら裁判官の前で話した内容より優先されてしまう。

ほんとにおかしな人種である。裁判官というものは。

これだけ、日本の裁判所が、検察官の作文を信じてしまうなら、無理に自白を迫るのは当たり前である。まして、密室なんだから。自白強要するのは当然であり、むしろやらない方が職務怠慢だ。長期拘束して無理に自白を迫るこのやり方は「人質司法」と呼ばれて批判されるが、そのすべての責任は裁判所にある。

警察や検察への批判は、むしろ司法改革の妨げになる。

冤罪の警察や検察への批判は適当でないうえ、私はむしろ、日本の司法改革の妨げになると思っている。問題の本質をぼかしているのである。司法への批判者は、諸悪の根源をそのシステムと裁判所に絞るべきである。警察官や検察官の倫理に頼ってはいけない。



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