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第11話 自分を大岡越前と勘違いする裁判官

ほとんどの日本人は、裁判所、または裁判官は、犯罪者を罰するところ(人)と思っている。確かに判決を下すわけだから、結果的にはそうであるが、その職務はその結論に至るまでの検察官の主張の冷静なチェックである。

裁判所は、被告を罰するところではない。それは検察の仕事であり、もしそうなら罰する側が2対1になり公平ではない。

よく言われることであるが、

「裁判で裁かれるのは、被告人ではなく、検察官だ」。

「裁判所の役割は冤罪の発見である」。

推定無罪の原則に従い、検察官の有罪立証に間違いがないか、徹底的にチェックするのが裁判官の仕事である。

また、これもよく言われることであるが、裁判所はけして真実を追求するところではない。

「裁判所はクロかシロを決するところではない、クロかグレーを決めるところである」。これは英語だと、もっとわかりやすい。「guilty or not guilty」であり、「guilty or innocence」ではない。

であるから、裁判官は、被告人に対し、処罰感情など持ってはいけないのである。

これが日本人の多くが勘違いしているところである。それどころか、裁判官自身も勘違いしている。

裁判官は判決の後、被告人に対し、説諭と言って、「今後は自分の罪に向き合って生きてください」など、諭すようなことを言うことがある。

こんな説諭なんてものを認めているから、勘違いするのである。他者より一段高いところから法廷を眺め、判決を下し、説諭なんてする。えらそうに。しかも、判決が、まだ下級審の段階であり、確定していない段階でである。自分を大岡越前と勘違いしてもしょうがないであろう。

すべての裁判官はもう一度、自分の職責を考えてほしい。

我々は真実の前に、もっと謙虚になるべきである。

ほんとうのことは、神と被告人しかわからないのである。(被害者がいれば被害者も)

だから、法廷では、被告人は神だ。裁判官も検察官も、弁護士も傍聴人もすべて唯の人である。

もし、冤罪なら、有罪判決を聞きながら、「馬鹿だな、この裁判官は」と嘲笑しているはずである。

逆のパターンもあり得る。

すべての起訴事実を認め、反省の態度を示し、情状酌量をもらいながら。実は、もっと重大な犯行を隠していたなんてことは、しょっちゅうだろう。

やはり、有罪判決を聞きながら、「馬鹿だな、この裁判官は。まんまと騙されて」と笑っているに違いない。

裁判官ごときに真実はわからないのである。





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