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是が非でも小便をひっかけたい

「小便をひっかけた先は自ずと心得ているものだ」と考えた時に、念頭には男性の立ち小便があったので、小便をひっかけた人間が男性に限定される表現になり、言い回しに汎用性がないことについて考えた。

田舎者なもので、ばぁちゃんの立ち小便には幾度も遭遇しているが、女性の場合は主に座り小便をするはずで、しかし、小便のいく先ぐらいはある程度把握しているのではないかと思うものの、ひっかけるとなると男性を思い浮かべたのだ。
誰が言っていたのか記憶が定かではないが、水洗式のトイレが普及したせいで、人は自分の排泄物が溜まって肥やしになったりもするのだというなにかの循環の一部に自分が存在していることを知る機会を失ったとか、そこでひとつ、この世への拠り所をなくしているのではあるまいかというのが、妙に頭に残っていて、汲み取り式の和式便器であれば、小便も溜め込む先というのが決まっているわけで、これはこれで意識の違いは出てくるのではないだろうか。

余談はさておいて、「小便をひっかける」だ。
そもそもは、「後足で砂をかける」という言葉があるのだから、そちらを使えば良いのだろうと思うが、「現象」では弱い。行為者としての「人」を中心に据えて意味を強めたい。スマートに強めたい。
用例.jpで「小便をひっかける」を見ても、やはり男性や犬の行為が主だが、ひとつこういうのが目についた。

それは、哀れな男性が対数的な巧知をもって、五千年、一万年、二万年もかかってようやく築きあげたものを、彼女が一晩で瓦解させてしまうということだ。引き倒した上に彼女は小便をひっかける。それでも、彼女が本気で笑っているからには、だれもとめだてすることができない。

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強い。ヘンリー・ミラーだから強いのも当たり前といえば、それまでかもしれないけれども、強い。こちらも強めたくてやっているのだから、このくらいの勢いは欲しい。
俄然、小便をひっかけさせたくなるのだけれども、ここで改めてヘンリー・ミラーを見れば、この小便をひっかける行為の強さは、女性が確信的に行なっているからこそ、より侮蔑的に感じられることに気づく。
ただ、これは個人的に保食神を連想してしまっているからだとも思い至る。
女性神のもてなしを受けていたのに、料理に排泄物をかけているのと勘違いして殺してしまい、その死体から種を得たという神話を知っており、その文化圏にあるからで、必ずしも世界共通だったり現代的な感覚でもない。

どうしたものだろうか。やはりどうにかして、動物じゃなくて、人に主体を持っていって、意味を強めたいのだ。かつて戯曲で描かれた強い感情は現代に至って概ね日常には登場しなくなったが、こうした感覚も汎用的に薄めていくことが求められる時代になっているのだろうか。

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