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太陽の人

人生はきっと、海を歩くことと似ていた。

どんなに凪いでいても、海の中で歩みを止めてしまうと、あっという間に砂に足を取られて転んでしまう。

秋ごろのわたしはきっと、あの日と同じように身動きが取れなくなり、波にのまれてしまったのだ。あの日と違ったのは、溺れかけたその瞬間に手を取って起こしてくれた人がいるかいないか。それだけだった。



きっかけは、数年ぶりに先代アイフォンの電源を入れたことだった。当時のロック画面も待受も、すっかり忘れていたけれど、Aqua Timezでうれしかった。

ホーム画面にあった日記アプリを開くと、案の定そんなに続いていなかったけれど、充分すぎるくらいの、陽だまりの粒をたくさん集めたようなまぶしい記録が残っていた。


もう4年も前のことだ。こんなにも時が流れていたことに驚くほど、思い出はせつなく鮮烈に輝く。




太陽みたいな人だった。

2017年の夏、当時派遣社員だったわたしが初めて行った仕事先で、もう何年も働いている人だった。同じ派遣会社に在籍していたけれど、入ってから何ヶ月もまともに話したことはなく、でも時折目の当たりにする明るさややさしさに、どぎまぎしていた。

年中黒い半袖Tシャツ(だいたい新日プロレスのグッズとかだった)を着ていて、寒くなるとハーフパンツがジーンズに変わる。

誰よりもやさしく、器用で仕事が速くて、社員にも古株の直雇用にも派遣社員にも頼られている人だった。ひとつ上(当時22歳)だったけれど、あまりに働きぶりが良く、はしゃいだりせず落ち着いているので、25歳くらいに見えていた。

仲良くなったのは、2月の繁忙期のさなかのこと。

そのときのわたしはちょうど、めちゃくちゃうるさくて社員にも容赦なく噛みつく怖〜い古株の直雇用のおばさんお姉さまの下で、少し特別な仕事を始めたばかりだった。

わたしは頭も効率も悪くて、いつもそのお姉さまに叱り飛ばされて、恐怖と自己嫌悪と申し訳なさで泣いてばかりで、それでも手を止めずに無我夢中で仕事をやりまくる日々だった。ずっと。

そんなある日、社員のまったく悪気のないとある言葉で、わたしがばっさりと傷ついてしまったことがあった。


わたしは昔から、「悲しんでいる」様子を「怒っている」と捉えられてしまうことが多くて、それがコンプレックスだったのだけど、だからだろうか、社員が去ったあと、偶然そばにいた彼に「泣きそうだよ」と言われたその瞬間からほんとうに涙がこみ上げてきて、胸がぎゅうっとなって、ぽたぽたこぼれてしまった。彼がそんなわたしを見ているのが分かった。ほかの誰も、世界中の誰も、わたしのことなんて見ていないのに、彼はわたしの涙を見ていた。

休憩室に連れて行かれ、励まされ、その日は遅くなったので車で送ってくれた。社員になぜか謝られたのは、きっと彼が何か言ってくれたのだろう。

それから一気に仲良くなった。というか、完全に恋に落ちた。

過去の日記を見返して気づいたが、わたしはきっと、職場に入ったころから、彼にあこがれていたのだと思う。どう考えても、わたしの視界で彼がいつでも光っていたことは明白だった。

彼も、わたしのことをすごく甘やかしていたと思う。仕事ができなさすぎて自分を責めまくり、休憩に行かずPCにかじりつくわたしを、いつもわざわざ「行くよ」と呼びに来てくれていたし、励ましてくれたし、褒めてくれたし、さりげなく手伝ってくれたし、残業した日は大抵送ってくれた。

何ヶ月も話すことさえできなかったあこがれの人と、どういうわけかたくさん話し、笑い、泣き、休日には当時仲の良かった社員も含めていっしょに海釣りに行ったり、途中から入ってきた彼の弟と3人で、残業終わりに深夜のうどん屋さんやファミレスでご飯を食べたりするまでになった。


はじめていっしょに海に行った日のことは忘れない。


あのころは髪が長かった。胸くらいまであったような気がする。「今度髪を切るんですよ」と何気なく話したら、「なんで?長い方が好みだよ」とまさかの変化球でストライクを取られて、わたしは「じゃあ切らない」と即答した。こぼれていた。好きがこぼれていた。

「海の中にいるときは、とにかくずっと歩くの。立ち止まるときは、そこで足踏みするの。そうしないとあっという間に足取られちゃうからね」ときちんと教えてもらっていたのに、つい気を抜いて足を止めてしまう瞬間があった。気づいたときにはもう遅く、ほんとうに動けなくなったところに波がぶつかってきて、簡単に倒れた。ざぶん。彼がすぐに腕をつかんで立ち上がらせてくれた。

2月の夕方。しかもその日はかなり風が強かった。一瞬とはいえ全身海に浸かった身体はすっかり凍え、ウェダーのなかに入り込んだ水のせいで一歩がとても重かった。「ぺんぎんみたいだよ」と笑いながらも歩幅を合わせて歩いてくれた。

帰りの車内では暖房をマックスにしてくれて、後部座席にいた社員が眠りこけるほどには暖かかったはずなのだけど、わたしはまだ海の中にいるかのような寒さに震えていた。

それを見かねてか、彼が「ん」と手を差し出したので、わたしも差し出すと、握ってくれた。握り返すことはできなかった。たぶん5秒くらいだったと思うが、決して誇張ではなく、永遠にも感じられた。しばらくしてからそれをもういちどくり返した。ふたりきりで過ごす時間はかなりあったが、どちらかが相手に、意思を持って触れたのは、それが最初で最後だった。あのとき握り返していたらどうなっていたのかと、戻りたいわけではないのだけど、今でもときどき考える。

それからも、彼が就職試験に受かって職場を辞めるまで仲良くさせてもらっていた。兄大好きな彼の弟はそれはそれは可愛く、なんやかんやあったのだが、そのころのわたしはとにかく彼ひとすじだった。

みんなのヒーローである彼と、急速に誰よりも仲良くなったことで、特に女性のスタッフからの風当たりが強くなった。怒りながらもすごく良くしてくれていたお姉さまもそれは同じ。直属の先輩が恐怖の権化であるから、わたしは毎日がつらかった。

いちど、ご飯が食べられず立てもしないほどの胃痛に襲われた日があった。早退することになり、ちょうどその時間からお昼休憩だった彼がオフィスのあるビルの下まで付き添ってくれて、心配そうにその場に留まる彼に、わたしは「早くご飯食べておいで」と手を振った。そのあと少しして、いくつか心配している旨のラインが届いて、わたしは思わず道端でしゃがみこんだ。痛いからじゃない。「もうずっと好きだ」と思ったから。

彼とその弟が辞めたあと、支えがなくなったことで本格的に耐えきれなくなり、体調を崩して(入ったときから10キロ近く痩せていた)、とてもやさしい派遣元の社員に相談したところ、すぐに辞めさせてくれた。あの人(お姉さま)のせいでこれまで何人も辞めているんだと、もうつらい思いはしなくていいと言ってくれた。今だから分かる。あのときのわたしはうつだった。

そんな環境でなぜ生きていられたか。

間違いなく彼がいたからだ。ほかに理由はない。

もちろんほかのスタッフと関わるなかで楽しいこともたくさんあったし、どんなに睨まれていても、わたしを好きでいてくれるスタッフが一定数いたことも分かっている。たくさんやさしくしてもらった。

それでも彼が太陽だった。

あなたがそこにいてくれれば、それだけで頑張れると思えた。

毎日シフトに名前があるか探したし、名前があるのに来なかった日は絶望した。反対に、来ると思っていなかったのに彼の車を見つけた朝は走って職場に飛び込んだ。

わたしが困っているとき、泣きそうなとき、落ち込んでいるとき、いつもいちばんにわたしのところに来てくれていたのは彼だったことに気づいたのは、彼がいなくなってからずっとあとのことだった。

「ひとりで泣いちゃだめだよ」
「見てれば分かるよ、maちゃんはすぐしゅびしゅび泣くんだから」

わたしの目を覗き込む彼を、ひとりで泣くたびに思い出す。

あの人だけが、わたしを見てくれていた。
あの人だけが、わたしを認めてくれていた。
どんなときも味方でいてくれた。

それがどんなに心強かったか。

きっと、わたしが大切な人のお守りでありたいと願うのは、わたしにお守りのような人がいたからだ。それがほんとうにうれしかったからだ。幸せで泣きたいほどに。

ねえ、あのときのあの言葉の意味ってなに?
どうしてあのとき手を暖めてくれたの?
わたしがあなたのこと好きって分かってたよね?

もう会えないなんて分かっているけれど、訊きたいことは山のようにある。しかし、それよりもわたしはきっと、ありがとうと涙とともに伝えるのだろう。ありがとう、ほんとうにありがとう、それ以外なんにもない恋だった。自分のものにしたいなんて、心のなかでも思えないほど好きだった。


太陽みたいなあの人が分けてくれた輝きは、数年間封をして閉じ込めていたにも関わらず、ほどいた瞬間に発光して、あのころのわたしの憂鬱から地続きの今のわたしの闇までを、まっすぐに照らし出した。


偉大な愛と勇気の物語、ハリーポッターのダンブルドア校長の台詞に「言葉は尽きることのない魔法の源」というものがある。あのころ彼がくれたすべてにわたしは心の底から救われていて、これほど時間が経った今でも泣けて泣けて仕方がないくらい、どうしようもなく、魔法だったんだ。


きっと、彼にとってはなんでもない交差だった。

今ごろどうしているのだろう?あの大きな大きな心にはわたしの影すら残っていなくて、それでも彼の世界は正しく回っているのだ。

今でもわたしにとって特別な人だ。これから先もずっと。それは未練ではなく、彼がわたしの心に残したやさしさが、時を超えて変わらず、愛おしく光るからだ。わたしは彼に何も返せなかったから、彼の中に残らない。

それはすごく寂しいことだけれど、でも、いい。

彼がくれた光を、わたしも誰かに手渡していけたら、それでいい。それがいい。

それでもし、いつかまた会えたら。会えなくても、話をできる日が来たら、やっぱり心の底から感謝を伝えたい。わたしはいつもあなたがいてくれたから、あの荒れ狂った海で溺れずに済んでいたのだと。

溺れて、もがいて、流されて、岸に打ち上げられたぼろぼろの今だからこそ、わたしはあの手のぬくもりに、もういちど気づくことができたのだった。

初夏、太陽の隣にて

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