大人になりたくない

みんなコロナで有意義な時間を過ごしているらしいな。旅行や1人キャンプ、ホームパーティーなど、密な空間への外出が難しい中、みんなコロナに適応している。GOTOを使っている人、くれぐれもお身体ご自愛ください...。
 さて、青天の霹靂で時間を与えられるとこの世の人間は2種類に分けられる。今後の生活の為に自己投資に時間を使うか、特に何も行動を起こさずぐうたらしてしまうかだ。私は残念ながら後者だった。私のコロナ禍での生活は七つの大罪で言うところの怠惰に支配されていた。コロナは隠れていた、いや隠していた私の人間性まで浮き彫りにしていったのである。
 
 学生時代の私は結構な読書家であった。部活と授業の合間にその時のトレンドの本を読み漁っていた。小説よりもビジネス書や自己啓発系が多かった気がする。しかし、コロナが与えた身に余る無限時間が私に及ぼした影響は大きく、私の周囲を埋める本が多くの漫画にと変わった。
 だが、コロナ禍の怠惰によって習慣化された漫画というものこそコロナ禍でのコミュニケーションを支援するツールとなった。休校中の生徒や新しく入ってきた1年生とすぐに絆を深められたのはまごうことなく炭治郎のおかげである。授業中居眠りしている生徒がいても怒るなんて無粋なことはしない。「おお、無限列車か?」と言うだけでその場はドカ受け、生徒たちが求める最高なコミュニケーションは成立したのであった。煉獄さんさまさまである。

 いわゆる、空気を読むではないが、言葉って誰が使うか、そして使うタイミングやその人に合った言葉というものが確かに存在するということを感じるようになったのがこの頃である。
 教員は生徒が起こす有りとあらゆる問題に毎日振り回されている。鬼ごっこして大会前に骨折しましただとか、授業しに行ったら教室がもぬけの殻だったとか、昨日振られたので今日学校休みますだとか、しょうもないことからやべえだろっていう問題まで、保育士のごとく対応している。もう文科省じゃなくて厚生労働省の管轄でいいと思うよ、マジで。
 まあその中にはいわゆる問題行動と言われるものも含まれている。(窃盗とか飲酒煙草とか)問題行動を起こした生徒はみんな漏れなく反省文を書かされるんだが、先日起こした盗賊団の一員に低学力の子がいた。漢字や主語述語が対応してないのは無論、国語辞典の使い方もわからないから直し方もわからないのである。提出してくる作文を先生方が添削するんだが、こんなもの見てらんねって言う先生方もたくさんいる。でも、知ってる言葉が少ないからこそ言葉が頭にすーっと入ってきてその子の人間性を示してくれる言葉があったのだ。
 私たちは普段、何か大会があってトップをとったとき、1位や優勝という言葉で表現するだろう。でもその子は、「てっぺん」を獲るという風に表現していて、一見幼稚だけれどこの表現がこの世の中で最も正しく、美しいのでは?という感覚に陥ってしまった。脳裏にはんだごてをつっこまれた感覚であった。

 私たちは言葉を難しく考えすぎてるのかもしれない。大人の考える文章には定型文が多い。覚えておくと便利なフレーズを脳内にコピーアンドペーストして日常生活をしのいで暮らしている。この場面ではこれを使って、この場面ではあれで、みたいな。しかし子供は純粋さなのか、言い得て妙な言葉の使い方をよくする。
 語彙力こそが教養であるとかの齋藤孝先生はおっしゃった。しかし、たくさんのジャブで攻めても、純粋な左ストレートが来たらどうだろう。言葉の表現にもKO勝ちというものは存在するのだ。
 私のこのエッセイ、大人と子どもどちらに属するのだろう。読者の方々にぜひとも伺いたい所存である。

(文:にこ)

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