のらりくらりと書いていく。訂正可能性を今年は考えていきたい。セルフケアについても。

大学の時の自分はとても賢かったと思う。
意識的ではないにせよ沢山本を読んで書いて考えて行動していた。
今よりも知的だったと思うし、自由な時間もたくさんあった。
だけれど今思うともう一つ足りない、と感じる。

当時の僕のナイスな考えの中に、問題は複雑であっても、具体的に対処できることは単純なところしかなくて、小さなところから、つまりわかる範囲から着手しないといけない、ということがある。これは今でもそうだと思う。
だけれど、今にして思うと、世界が限られていた気がする。
問題について考える積極性はあったし、ある程度の社交性もあった。
今と変わらずあまのじゃくなところもあったけれど、ある程度真面目なところもあった。
ただ当時は厳密に解決しようと思いすぎていた気がする。
つまり、解決できそうなところだけ着手・着目して、そうじゃないようなところは等閑視するような姿勢が無意識に作り上げられていた。
積極的に棚上げするという態度は当時はなかった。わからないから寝かしておこう、というような豪胆な構えのようなものはなかった。
簡単に言うとネガティブケイパビリティが足りなかった、というところだろう。
あとは我流でやりすぎていたというところもある。
学問を学びに大学に行っていて、がむしゃらにやっていた。それは大いに結構なのだけれど、人生には限りがある。有限性の問題は当時から意識していた。正しいアプローチ、とまではいわないものの、先達の叡智のようなものにもう少し敬意を表しても良かった気がする。

今何を考えているかというと、自分自身の訂正可能性である。
セルフマネジメントはおおむね失敗していたということを思い出される。ケアについて考えていたにもかかわらず、セルフケアはうまくいっていなかった。僕の卒業論文のテーマは自己だったにもかかわらず、そこに直接的なアプローチができていなかった。必要なことはセルフケアと他者ケアのバランスにすぎず、セルフケアのために他者ケアを優先するという態度ではない、と今なんとなく考えている。
自己犠牲したいと思える対象がいるということは、踏みとどまって考えなければならない。なぜならば、我々は有限でありまた残念ながら世界は一つではないからである。ある世界を絶対的に生きていくということは、いろいろなことに目をつぶる必要がある。性善説の論拠に見て見ぬ振りができない、ということはわかっていたはずじゃあないか。

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