疲れたし、今日はnoteを書くのをやめようと思いつつ書いたnote。

書く事から逃れることはできない。

書く事から逃れたいなぁ。たまには休みたいなぁ。
金曜日だし?例えば今日更新しないで、明日の朝とかにまとめて2つ更新したほうが内容的にもいいものがかけるんじゃないか?
疲労感と開放感マックスの状態で何か語らなくても、気楽に生きていけばいいんじゃないかな。

言い訳や理屈というものは、いつでもどこでも何度でも可能である。
そしてそのすべてはしない事を応援してくれる。

しかし、我々に必要なのは、やらないことの正しい理論ではなく、やることの間違った衝動だろう。
何かのやる気が何かをやってから発生する。やるかどうか、というすごいシンプルな世界である。

そう考えてみると、すこし気楽になってきた。才能とか内容の巧拙というものは実は二の次であって、自分がやるべきことは、ただやることなんだ。
個性とか向き不向きとか、そういったものがあてはまる環境や物事で頑張るべきではなくて、とりあえずまぁやってみるし、向いてなさそうでも、向いてないなりにやるほかない。
上手くいくからやる、というのもおかしな話だ。考えてみると。
やってみる前にうまくいくかどうかわからないので、仮にそれを判定する方法があったとしても、今やっていること以外にうまくいきそうなことなんて実はごまんとあるんだろう、という誘惑に打ち勝つのが難しい。

自分の事を理解するというよりは、自分の事を理解できる範囲でつなぎ留めておくために、書き続ける。

自分から逃げることをよく考える。逃げおおせたいのか、安全地帯に逃げ込みたいのか最近ではあまりよくわからない。
自分自身についての理解が進んだからというわけではなく、あまり自分に関心が無くなってきたからなのだろう。他人との違いというものをフラットに見えるようになってきたのかもしれない。昔はそれは、コンプレックス直行ルート以外の何物でもなかったが、今日も自分が続いている感覚というものをnoteを更新するなかで得ている。もはやそちらのほうが主産物で、note自体はおまけのようなものである。

おまけだから今日は更新しなくていいんじゃないか?
自分というものが理解できつつあり、ある程度の纏まりをもって、日常生活を送れているから、例えば金曜日はおやすみの日にして、他の曜日を充実させるルールを追加してみてもいいんじゃないか。

そんなことを考えてもない。打っている時に言い訳をする自分を想定して書いてみたものの、もうそこには客観視がある。流されることはない。
主観と客観のバランスを求めて今日も書いた。


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