もうインターネットは自分の居場所ではないけれど、思い出すことはできる。

ニコニコ生放送で暫く放送をしていた。
何ができるわけでもない自分が放送をしよう、と思ったところが、今思うととても良いなと思う。
当時は、スカイプを使っていて、数人の固定のグループがあった。
会議通話を行いながら、オンラインゲームを渡り歩いていた。
新しいゲームがでるたびに、ベータテストに乗り込んでいって、またふわっと解散する流れだった。
そこで、しゃべりを褒められた。
某一級建築士のネタをとっさに返すことができたのだ。
僕はしゃべることができる、というかしゃべるのがうまいんだなと思った。

中学生の時は特にやりたいこともなかった。
ただ、中学三年生の時、クラスで喋れていると思った。笑いをとっている、そういう時間みたいなものがあった。
うちの中学校は当時の入試制度からだいたい同じ高校に流れ込んでいた。
クラスの数が5クラスから10クラスに増えたので、当然のように友達と別のクラスになった。
その友達に、僕と同じクラスになれなくて残念だったな、というようなことを話した。そうすると、お前より面白いやつがいる、というようなことを言われた。そのことを今でも覚えている。
ほんの少し芽吹いていた自身が刈り取られた。
しゃべることに自信がなくなっていった。

別にそんなこと気にしないで、好きに話をしたらいいのに、と今では思うが、やはりteenはナイーブである。

それでも僕はしゃべることにかじりついていった。
ニコニコ生放送が居場所だった。
配信することが、喋ることが自分の存在意義を表しているように感じていた。
当時は勢いしかなかったけれど、勢いだけで喋るということができていた。
何もわからなかったし、哲学なんてことを少なくとも読んだりしたことはなかった。
それでも、僕は実際に居場所がインターネットにあった。

立場が変わって、最近はもちろん僕の居場所はインターネットにはないのだけれど、若者はどうなのだろうか、と思う。
もっといろいろな場所があるのだろう。だけれど、それは居場所なのだろうか。
ツイッターも半分やめてしまって、noteだけがオンラインと繋がる唯一の道になりつつある。
たまにそういう居場所に戻りたくなる。
真っ黒い画面に向かって30分しゃべり続けるというのは、少なくとも僕にとっては楽しい営みである。
言いたいことは何もなかったけれど、何か言いたかったのだなと過去の自分を思い出す。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?