僕は演技が下手だけれど。

カラオケ行こ、を観た。ネットフリックスで。
主役の演技がとてもすばらしい。カラオケをちゃんとメインディッシュというか、そういうしかけにしているところもよかった。
思いっきり腹を抱えて爆笑するというよりは、ほんわりコメディという匙加減もよかった。
主人公の部活の後輩のポジションの男の子の演技がとてもよかった。キャラクターというか、没入感というか、そういうことを考える。

日常生活で僕たちは演技をしている。悪い意味とか、変な意味ではなくて、その与えられた場にふさわしい演技を、またはあえてふさわしくないような演技をしてしまう。
本当の自分のようなものをあーだこうだすることが好きな方ではあるけれど、今はどちらかというとその場でよりよい演技をしていきたいな、と素朴に思っている。

こうやってnoteをだいたい毎日書いているのも、書いている演技なのである。本当の僕のようなものが存在しているとしたらば、書く事は僕には不可能なのである。あまり興味がないというか、書く語彙がないというか、書けないと反射的に思ってしまう。そのあとにもっともらしい理由を並べ立ててしまう。
ただ、PCの前に座って10分のタイマーをかけると僕は1000文字noteを量産する三十路すぎの男性になれる。年齢なんて僕の意識に全く登らない、けれども、周りから見た場合、その年齢こそが僕の主要な要素になってしまっている。

言葉遣いもそうである。
ある時から僕は僕という一人称を使うようになった。ネットスラングのようなものや顔文字みたいなものも積極的には使わなくなった。
それは僕の変化ではなく、僕の演じ方の変化だといえる。
本当の僕はどう考えているとか、どう表現したいか、ということを厳密に考えることはおそらく無理だと思う。こうだろう、と確定しようものならそこから漏れ出てしまうというか敢えて漏らそうとすらしてしまう、それこそが自分だと思う。
そうではなくて、ふりなのである。いい子にふるまおうとするだけなので、いい子ではない。でも、そういう振りか、本当かということは、他の人にはもちろん僕自身についてもわからない。
ということは、本当だろうが、振りだろうがどっちでもいいということでる。それなら、楽しい方がいいよね。

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