何にも考えないようにしなくても書く事で癒される。

ある種のセルフケア、自分の癒しのために今日も書く。
BGMを流して書くと集中できないというよりは、世界に入り込めない。
僕が書く文章の世界に。
ラジオが好きなので、車の運転の時や、家でちょっとした家事をするときは、いつもラジオを聴いている。ポッドキャストも好きでヘビーローテーションしているものもある。
だけれど、こうやって一週間の仕事の疲れを引きずりながら、タイピングをしているときは、音がない方がいいと思う。今寒いからエアコンをつけているけれど、その音も余分だな、と思う。
過去の反省というか、自分がしてきたことを振り返ることが多い。それは職業的にも仕方ない部分はある。
だけれど、その過去をなかったことにしたいとかそういうわけではまったくない。これは東浩紀の訂正可能性の哲学を読んだから、というよりは、なさけないどうしようもないなにもない自分から再スタートを切ったという自負が僕を支えてくれているからだなと思う。
どんなに理不尽な事があっても、大変でもまぁそれはそれとして、なんとかやっていかなければならない、とちらっとハイデガーを流し読みして考えた僕のある種の哲学のようなものである。
一見ふざけているようで、真面目に不真面目なのである。やはりかいけつゾロリか、と思う。
というよりは、それはバランスをとることに寄与している。
真面目だけでも不真面目だけでもよろしくない。おもしろくないし、何より飽きる。これが僕のセンス、感覚である。
どうもセンスがあるとかないとかそういう議論に参加する気になれない。もちろん受け取り方の問題ではある。
そう考えていると僕は五感で文章が書けているのだろうか。
どうにも見たものの描写が下手すぎやしないか。そう考えてみるとレポートのようなものを書き連ねると描写をする力も増えてくるのかもしれない。
何か印象的だった場面があるか。

この前の休みの日は家の近くの有名な鉄板屋に行った。
昼に行ったのに混んでいた。店員さんが若くてかわいい感じの人だった。でも感じは悪かった。こちらを見ないでささっと商品を提供していた。声のトーンも低くぶっきらぼうといった感じだった。でも頼んだものはおいしかった。ポン酢でいただいた。久しぶりにお好み焼きが作りたくなった。

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