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『メドゥーサ デラックス』に見る“透明な人”

どの世界においても、気にされない人がいる。ここでいう“世界”とは、個人の価値観の話だ。

”気にされない”というのは、“存在”は認知できるが“個”として認識できないこと。誤解を恐れず言えば、工事現場の警備員がいい例かもしれない。

工事現場の警備を否定しているのではない。車やバイクを運転しているとき、彼らの指示は気にしても、彼ら自身に目をやる人は少ないのではないだろうか?ちょっとわかりにくいかもしれないが、そういうことだ。

『メドゥーサ デラックス』(10/14公開)は、ヘアコンテスト当日に起きたカリスマ美容師殺害事件の顛末を描くワンショットドラマ。設定で目を引くのは殺害されたカリスマ美容師の頭皮が剥がされていたこと。(ホラー映画でいうところのスカルプスである)

本作で強調されるのは、スカルプスに対する美容師達のリアクションである。美容師にとって髪の毛は、人体を構成する非常に重要なパーツだ。それが引っぺがされたというのだから、よりブルータルな殺人に映るのだろう。しかし『死霊のはらわた ライジング』でも『マニアック』でも描かれているが、スカルプスぐらいでは人は死なない。だが『メデゥーサ デラックス』に登場する美容師達は揃って「髪の毛を剥がされて殺された」と思っているかのような口ぶりだ。

これを前提に『メデゥーサ デラックス』では、「不審な男」の影が語られる。しかし、美容師やモデル共々「”いた” が ”だれだったか解らない”」という。つまり、工事現場の警備員のように認知されていない存在といえるだろう。

この”誰だったか解らない”人物が、どのような人間で、何故誰だったのか解らなかったのか?そこに『メデゥーサ デラックス』のテーマがある。物語の核心に迫ってしまうので、これ以上は語らないでおく。しかし、本作を見た後は、誰かを自分の生き方で不用意に透明化していないか?と考え込んでしまうだろう。

『正欲』を観たときも思ったが、他人からの認知ってのは、ある程度生きていくために必要だ。しかし、それが過剰になっていくと『シック・オブ・マイセルフ』になってしまう。うーん、バランスってのは難しいのぅ。

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