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3・11の大津波襲来後 ひっそりと眠り続ける「マリンパークなみえ」で花を捧げるひとりの女性に出会った

 全住民約9万7000人が原発事故で強制避難を国に命じられた12市町村。そのひとつに「浪江町」があります。この町には、かつて住民に愛されていた「マリンパークなみえ」という総合型レジャー施設がありました。

 現在は解体されてしまいましたが、2022年3月11日、その憩いの場所には津波犠牲者に花を捧げるひとりの女性がいました。

 住民に愛されていた「マリンパークなみえ」と津波襲来後の跡地で「花を捧げる女性」について今回は記しています。内容について至らない点が多々ありますが、全文公開になっておりますのでご覧ください。



◇住民に愛されていた総合型レジャー施設「マリンパークなみえ」

 2011年3月11日に発生した東京電力福島第一原発事故。その人災から10年後、日本政府と日本オリンピック委員会は、東日本大震災と原発事故からの復興を世界にアピールするため東京五輪聖火リレーのスタート地点を福島県に指定した。

 2021年3月25日、初日の聖火リレーは福島第一原発周辺自治体の10区間を走った。

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東京五輪【聖火リレー】福島県内スケジュール(21年3月25日~27日)/福島民友新聞より引用

 1日目の聖火リレーのコースに「浪江町」がある(青⑨)。この町は原発事故で強制避難区域を国に命じられ人口が激減した12市町村のひとつだ。

 震災当時21,434人の住民が暮らしていた。3・11から10年後、町内の住民はおよそ1700人(2021年9月30日現在)。つまり住民の92%はいなくなってしまった。

 その町に原発事故被害地再生拠点「道の駅なみえ」がオープンした。

↓浪江町再生拠点「道の駅なみえ」/2021年7月11日 筆者本人撮影

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 強制避難解除後に新築した商業施設とは異なり、震災前に地元の住民に愛されていた憩いの場所があった。それが町営の「マリンパークなみえ」だ。

↓2021年3月26日撮影(冒頭の写真)

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 この本館には丸いドーム型のプラネタリウムがあり、併設の広い運場ではサッカーやテニスを楽しむことができた。さらに展望台や親水公園もあったため、家族連れでのんびり過ごすには絶好のレジャー施設だった。

↓マリンパークなみえと可憐に咲く紫陽花/浪江町震災・復興記録誌より引用

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 震災当時、浪江町立請戸小学校6年生だった横山和佳奈さんは言う。

「請戸小の子は遠足で行くような場所だったんです。請戸の子はみんな思い出がある場所なので。ある意味シンボルみたいなものだったんです」

 しかし、住民に愛されていた町のシンボルは地元の人々に広報されることなくひっそりと解体された。

◇津波に破壊された憩いの場所

 私は解体前のマリンパークなみえを訪れていた。その場所にたどりついたのは偶然の出来事だった。

 東京五輪聖火リレースタートの2日前、1本の有料記事がnoteに公開された。

◎フクシマからの報告(noteより)

 この記事は、震災から10年目の原発事故被害地で、死者への敬意や大切な家族を突然失った人たちへの遠慮が見えないマスコミ記者たちの狂騒をフリージャーナリスト・烏賀陽弘道氏が報じている。

 私はこの記事を読み、無念のうちに生涯を終えた人々を悼む慰霊碑が海岸沿いに建っていることを知った。聖火リレーを報じる新聞テレビ記者とは違うかたちで何か自分にできることをしたいと思った。

 2021年3月26日、私はこの記事を手がかりに南相馬市小高区に向けて海岸沿いをクルマで走っていた。そこで偶然たどりついたのがマリンパークなみえだった。

以下写真28点 2021年3月26日 筆者本人撮影

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建物裏側から中に入ってみた。

↓警報機や配電盤がさびて朽ちていた

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↓むき出しの電灯が風にゆれていた

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 私は目の前の状況を写真に収めていた。

 すると1階のエレベーター前に包装された花束が置いてあるのを見つけた。

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 私が訪れていたのは2021年3月26日。つまり、震災から10年経過したこの場所に誰かが訪れていた。花束に近づいてみる。すると包装のラベルシールに購入場所が書いてあった。

【産地】浪江町
【出荷日】2021.03.11
 道の駅なみえ 

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 道の駅なみえと書いてある。どうやらここで購入したようだ。私は目の前の状況にとても混乱した。これは、いったい誰がどんな思いを抱いてここを訪れ、花を置いたのだろう。震災から10年後に残る津波襲来の跡を見たら、当時の大津波の状況を思い出してつらくなったり、苦しくなったりしないのだろうか。

 私は再び写真を撮り続けた。

↓津波によって窓ガラスが吹き飛び、草木は野生化していた

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↓プラネタリウム前の通路

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↓砂埃が積もった扉が無残に横たわっていた

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↓プラネタリウムの入り口はスピーカーが垂れ下がっていた

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↓暗闇に閉ざされたプラネタリウム

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↓トイレの扉はなくなり個室がむき出しになっていた

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↓消火ホースのない消火栓

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↓カバーがはずれた給湯器

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↓部屋を仕切る間仕切り

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↓壁の石膏ボードと天井壁は津波によってはがれ落ちていた

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↓食堂

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↓厨房

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↓展望室

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↓展望室から下をのぞくと窓が落下していた

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↓堤防沿いに広がる植樹

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↓給湯室

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↓事務室の棚はさびて朽ちていた

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↓埃が積もった書類棚

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↓電話のコードは切れて受話器はなくなっていた

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↓鍵の保管庫とそれぞれの場所を示す鍵番号

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↓解体が決定していることを示す木札が立っていた

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 2021年7月11日、私は再び現地を訪れた。建物は解体されていた。その場所は崩れたコンクリートと鉄筋がむき出しになっていた。

↓写真3点 2021年7月11日 筆者本人撮影

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◇マリンパークの跡地で花を捧げる女性に出会った

 2022年3月11日、住民に愛されていたかつての憩いの場所「マリンパークなみえ」を私は再び訪れた。1年前エレベーターの前に置かれていた花束。いったい誰が何のために置いたのか。その理由が気になっていた。

 再び現地に行ってもあの場所を訪れていた本人に会える可能性はない。でも行かずに後悔するより、とりあえず現地に行ってみよう。そう考え私はクルマを走らせ現地に向かった。

↓前方に見える白い建物は、海岸沿いに建つ放射性がれきの処分施設

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 マリンパークの跡地に着いた。

 すると1台の軽自動車が敷地の片隅に停まっていた。誰かがいる。女性のようだ。植え込みのあたりに花を置いてしゃがみこんでいる。

 私は急いで、黒いスーツを着ている女性を撮影した。

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 勇気を出して声をかけた。

 そこにいたのは福島県二本松市在住の27歳の女性だった。震災当時は、福島県立浪江高等学校津島校に通う16歳の女子高生だった。

 会話を交わしながら、エレベーター前で撮った写真を確認してもらった。すると彼女は言った。

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『エレベーターの前に置きました。私です。このへん風強いから。エレベーターの下だったら飛ばされないかなと思って』

 ご本人だった。まさか会えると思わなかった。なぜここに花を捧げようと思ったのか。私はその理由を尋ねた。

『きっかけはそうですね。やっぱり震災で多くの方が亡くなられて、今も見つからない方が大勢いらっしゃって。やっぱり大人になっていくとどんどん忘れちゃうことも多くなってきたので。

 最初は正直、津波の映像を見たときは、数年間海が恐くて見れなかったんです。海に近づくこともできなくて。だから海を見れるまで何年も経ちました。

 それで津島のほうには来たんですけど、浪江までは行く勇気がなくて。見たらやっぱり怖いなと思って。何年もかかって。それで行ってみようかなって思ったときに、マリンパークのほうが見えて。ああ、子どものときに遊んだなあって思い出して。

 自分の子どものころの記憶と、あと亡くなられた方もきっと大勢いらっしゃると思ったので花を置こうと思ったんです』


 2022年3月11日、東日本大震災・津波と福島第一原発事故の発生から11年。マリンパークなみえの跡地には、子どものころの思い出と記憶をたどり、津波に巻き込まれて無念のうちに生涯を終えた津波犠牲者に花を捧げるひとりの女性がいた。(2022年3月11日 筆者本人撮影)

↓花束の奥にマリンパークが建っていた 

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2022年4月4日 東京にて記す

◎主な参考文献
● 福島第一原発事故 10年の現実/烏賀陽弘道(悠人書院・2022年3月11日発行)

● フクシマからの報告 2020年秋 商店街・モール・ボウリング場… 町がまるごと消えていく 3年で住民の帰還率6% 原発から8キロの浪江町 写真ルポ(上)/烏賀陽弘道(2020年12月6日 note

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