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手帳とわたし・2

見事なまでの放置っぷりである。ここまで来るといっそ清々しさすら感じる。放置するなら徹底的に。そうだろう?何事も中途半端はいけない、いけないよ。そもそもわたしのnoteの更新がぱったりと途絶えたからとて一体それがなんだと言うのか。誰も知らないnoteなのだから誰も気に留めない。つまりまったく問題ないのである。

若干悲しくなったところでしれっと「手帳とわたし・2」を書きはじめたい。手帳好きであるにもかかわらず手帳が使いこなせないわたしだが、それでも高橋書店のレフト式を何年か買い続けていた時代がある。書き込みのないページは多々あったにせよ、今思えば比較的それなりに使いこなせていたような気もしないでもない。12月から使いはじめてまあ7月くらいまでは何かしら記入していたような気もしないでもない。手元に1冊も残っていないので記憶だけが頼りなのだがマンスリーページには予定を、ウィークリーページには何かしらちょこちょこメモをしていたはずである。目印にシールを貼ったりしていた、はずである。数日前のことも覚えていないのに、何年も前のことを覚えているはずがないのである(だからこそ記録しておくべきだし何のための手帳なのか、といった正論は言われなくともわかっとる)。

それはそうとこの高橋書店のレフト式、カバーが黒でまあなんというか地味だった。手帳本体のフォーマットやフォントには特に不満はなかったものの、カバーが黒というのがなんというかおもしろくないというか。高橋書店のレフト式には同じタイプで赤もあったと思ったが、同じ赤でもほら好きな赤とキライな赤ってあるじゃない?残念ながら後者でした。手帳本体を満足に使いこなせやしないくせにカバーの色?そんな些末なことにいちいちこだわるんじゃない、と我ながら思うが性分なので仕方がない。

だからこそより一層魅惑の手帳に見えたのだろう、ほぼ日手帳が。地元の書店の手帳コーナーなどでは到底お目にかかれないきれいなカバーがいっぱいで、しかもポケットもいっぱいだ。何これすごい。何より使用例として掲載された手帳のページがどれも一様に楽しそうで、書いたひとたちの日々の充実ぶりを物語っているかのように思えたのだった。

この手帳を使えばわたしの日々も充実するのではないかという盛大な勘違いにより、ほぼ日手帳を手を出した。まったくもって浅はかすぎる。



その浅はかぶりは「手帳とわたし・3」にて。

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