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コトバが解放の背中を押す

つい幾つか前の記事の中で、
「永遠と」という日本語は無く、正しくは「延々と」である事に触れました。

また、「私のが」も全くブロークンな日本語であり、正しくは「私の方が」である事もお話ししました。

いつもは「生きづらさ」にまつわる事や、機能不全家庭のお話しなどさせて頂いているのですが、

カタチの無い「心」を言葉に当てはめて、お話しする時、100%の表現はありません。

心を説く先達も、時に言葉の限界に突き当たりながらも、あの手、この手で世の中の人々に伝えたら良いのか、苦心讃嘆されたものと思います。

時に同じ事を説くのに表現を変え、時として方便すら交えながら、この世にバチッと当てはまる言葉が無い、「心」を説いて説いて説き尽くして今日に至る訳です。

私はいつも高尚な境地に立ちましょう、などということは、少しも申し上げるつもりは無くて、

ただ、「生きづらさ」を手放したいと願う方が、そうする為の「気づきのヒント」になるお話しが出来れば、私が嬉しい、と思っているのです。

この世に生きながら、「生きづらさ」を手放す事を考えるなら、

述べました様に、バチッと当てはまる言葉は存在しない「心」について、100%では無いにしろ、近しい「言葉」を使って心を言語化する必要性が、どうしても在ります。

物質世界に生きる我々の宿命です。

この世に生きる限り、我々は言葉から逃れる事は出来ないのです。

インフルエンサーのひろゆき氏が「それってアナタの感想ですよね。」というフレーズを多用している時期がありました。

ひろゆき氏は、自分も入れて3名以上になると、アナタでは無く、固有名詞を多用します。

例えば、
「それって田原総一朗さんの1意見ですよね。」
「それって勝間和代さんの感想ですよね。」
などと、
最初聞いた時は、田原総一朗さん、とか、勝間和代さんとか、語呂がリズミカルだから、面白がって使っているのか、と思ったのですが、

これは、3名以上で討論する際、自分は田原さんのこの意見について言及してますよ、私は勝間さんのこの意見に反対ですよ、と、明確にする為の話法である事に気がつきました。

極めてSNS的な明解さのある話法です。

そこには、古式ゆかしい日本語の美しさとか、様式美の様なものには、左右されない内容が的確に伝われば良い、という強さすら感じます。

討論の中で、リプライやメンションを多用する事で、標的をぼかさない効果的な話法です。


それはそれで、おいそれと真似できるものではないですし、ある意味、「話芸」に近いのかもしれません。


その時代に則した「話芸」も大いに感心しますが、こと「心」のこと、特に「生きづらさ」を手放す事を考えるなら、

言葉を意識的に大切に扱う事は、解放を目指す上で、背中を押す大きな助けになってくれる様に思います。

例えば、自分が抱えているネガティブな感情は、「悲しさ」なのか「寂しさ」なのか、種類分けする事が、原因を突き止める方法になってきます。

勿論、最終的には、本人が「生きづらさ」を手放すんだ、という決断があれば、解放は可能です。

しかし、そこに言葉を大切に扱う習慣がある人は、より解放に向かいやすい様に、個人的には感じています。

それこそ、例に上げた、「永遠と」が何故間違いなのか、「延々と」がどうして正しいのか、
「私のが」が好ましく無く、「私の方が」が好ましい理由など、

些細な小さな事かも知れませんが、それらの事になんの疑問も違和感も感じない事が、言葉をないがしろにする習慣がついている様に思います。

言葉を大切にする人は自分の抱えるネガティブ感情が「悲しさ」なのか「寂しさ」なのかという問題の前で、足踏みすることは少ないでしょう。

その小さな習慣の先に、文の余白から何かを読み取ったり、する事を通じて、「思考」一辺倒ではない、「マインド」で感じる世界が広がる様に思うのです。

地頭がいいとか、悪いとか、そことは関係ありません。

要は、感情が柔らかく動くかどうかです。


もうひとつ、個人的に嫌な使い方をする人が沢山居るなぁ、と思っている言葉があります。

それは、「言動」です。

メディアでも、言葉のプロと覚しき人や、ある専門分野の有識者、著名なインフルエンサーも、

なんのてらいもなく
「言動や行動に責任を持って欲しいですよね。」
などと言います。

これは、勿論間違った日本語で、「言動」とは、「言葉」と「行動」です。

どうやら「言動」を言葉の動きと捉える人が何故か激増した事が原因だと思われますが、

例に上げた、
「言動や行動に責任を持って欲しいですよね。」
は、「言葉と行動と行動に責任を…。」となります。


別の事例を列挙しますが、

仕事で上司とメールでやり取りした際に、
「それが肝要かと思います。」と打った私のメールにわざわざ赤でバツをつけ、
肝要❌
寛容⭕
と送り返された事があります。

このメールの内容は、「それが肝心要だと思われます。」というものなので、文脈からして、柔らかく受容する話しなどしていないのですが、

言葉をないがしろにするクセがついているのは、SNS世代ばかりでは無く、我々よりも上の世代もまた、言葉をぞんざいに扱う人は沢山居る様に思います。

言葉は世に連れ変化するものです。

慣用句なども、昔の意味とは全然違った使われ方をしているものなど、数限りないです。

天上天下唯我独尊などは、今や、怖いもの知らずで自分が良ければそれで良い、という意味で使われる事が多い様に思います。

個人的には、自分が良ければそれで良いと思っているのか、と誤解されるのも困るので、ほぼほぼ使う事は無くなりました。


些細な事だと思われる向きも、あろうかと思いますが、

言葉に重きを置くことは、心を考える上で、大変な助けになる、と確信します。


NAMIDAサポート協会カウンセラー
伴走者ノゾム

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