伴走者ノゾム@TSL/Tsubasa Spilit Laboratory

感じる・考える、のバランスを整え『生きづらさを手放す』ことを核に『軽やかに活き活きと生…

伴走者ノゾム@TSL/Tsubasa Spilit Laboratory

感じる・考える、のバランスを整え『生きづらさを手放す』ことを核に『軽やかに活き活きと生きる』をサポート。TSL/Tsubasa Spilit Laboratory(ツバサ・スピリット・ラボラトリー)代表。カウンセリング、講演、施設慰問、著述等の活動に従事。

最近の記事

私は毒親でしょうか?

「私は毒親でしょうか?」 そう尋ねるお母さんは少なくありません。 私は「毒親」と言う言葉は理由があって極力使わないのですが、 問い掛ける、苦しむお母さんは、大半が冒頭に記した様に「毒親でしょうか?」と尋ねられるので、今回はそのまま使いました。 何故、その言葉を使わないのか、は、別記事でお話ししようと思っています。 結論から言いますと、本当の意味での毒親であれば、自分は子供にとって良くない母親なのではないか?と言う疑問を持ちません。 だから、思い悩む時点で、そのお母さ

    • 言うに言えないことを察する心

      得体の知れない重々しい気持ちを引きずったまま、人生を歩いた果てに、 その重々しい気持ちこそが、生きづらさである、と気がつく人がいます。 その原因が、幼少期の親子関係にあるのではないか、という事まで見通す人がいます。 その人は、生きづらさの原因となった親子関係しか知らないのですから、自分一人で、そこまで辿り着くには、とてつもない苦しみや、寂しさ、虚しさを味わった筈です。 とてつもなく苦しかったから、自分の心の在り様を、探り始めたのだと思います。 そして、その人は、幼少

      • 心配という支配

        世の中には、優しい人もいますが、ズルい人もいます。 そしてズルい人は、自分が抱える無価値感を解消する為に利用し易い相手を的確に探し出します。 これは、ズルい人は、カモに出来る相手をいつも物色しているからですし、 ズルい人は、やはり騙す人、欺く人に囲まれる親子関係や人間関係の中で育ち、 慣れ親しんだ環境で、触れた事があるタイプを、言わば匂いや、肌感覚で見つけ出します。 ズルい人と、利用される人は同じコインの表と裏です。 どちらも、否定され、拒絶され、利用される環境に

        • 許す道、断罪する道、向き合う道

          自分が抱える、苦しさ、は、 生きづらさ、だったんだ、 そう気がつくことは、 苦しむその人にとって、簡単なことではありません。 余程のレアケースを除いては、生きづらさ、の原因は、幼少期の親子関係にあります。 つまり、 生まれた時から苦しくて、 物心ついた頃には生きづらくて、 その人にとっては苦しい状態は、当たり前で、生きづらいのが常態なのです。 その人が、苦しみの無い状態を少しでも経験していたなら、自分は苦しい、と自覚出来た筈です。 その人に、生きづらさなど無い日

          気づいた時が、その人のベストタイミング

          生きづらさを抱えている人は、感情が動き辛く、感情が動かない分を思考で補って生きています。 本人にその自覚は無く、感情は動いている、と思っています。 本来感情は、川の流れの様に、常に動いていて、思考はどちらかと言えば、要所で集中的に使われる役目です。 それなのに、感情が動かない分を、思考で補う訳ですから、思考はフル稼働で、オーバーヒートを起こしています。 熱を持ち、こんがらがって、その人は混沌とした思考一辺倒の世界に生きています。 桜吹雪を見て、 強風が吹いている、

          気づいた時が、その人のベストタイミング

          心の幼さはコツコツと積み上げることを嫌う

          心が幼いと、積み上げること、が出来ません。 コツコツと地道にひとつの物事に取り組むことがひどく苦手です。 心が幼い、ということは、心の中に確かな【自分】という意識、が育っていない、ということです。 確かな【自分】という意識は、心の核、です。 コツコツと積み上げる、経験、は心の核である【自分】の上に積み上がるのです。 【自分】が育っていないと、経験が積み上がる場所がありません。 【自分】が育っていれば、コツコツと積み上がる経験が、【自分】を育ててくれる喜びを感じます

          心の幼さはコツコツと積み上げることを嫌う

          負の連鎖を断つことでは無く、生きづらさを手放すことが主眼

          機能不全家庭の親は、心の中に、確かな【自分】という意識、が育っていません。 自己不在なのです。 確かな【自分】という意識は、幼少期に親から、肯定的に受け入れられることで育ちます。 自己不在の親は、かつて親から否定、拒絶されながら育った経緯があります。 だから、【自分】が育たなかったのです。 【自分】は、心の核であり、その人の人生の主役です。 心の核が満足に育っていないのですから、情緒は幼いまま、です。 見た目は立派な大人で、子を持つ親でありながら、情緒は極めて幼

          負の連鎖を断つことでは無く、生きづらさを手放すことが主眼

          心の傷に対峙する母、目を逸らす母

          我が子の屈託の無い笑顔、 可愛くない訳が無い、 我が子の楽し気な姿、 愛しく思わない筈が無い、 それなのに、この子のことが、どうしても癪に障る、 自分ばっかり笑って、 自分ばっかり楽しそうで、 泣かしてやりたくなってしまう。 そんな思いに執らわれる自分を、 毎日責めているお母さんが在ることを、私は知っています。 この子を愛している、 この子が可愛い、と心の中で、祈る様に呟いてみても、 その祈りとは裏腹に、 癪に障る自分がいる、 泣かしてやりたくなる自分がいる。

          心の傷に対峙する母、目を逸らす母

          お金は必要だけど、一番大切なものじゃない

          その時代に生きた訳ではありませんから、多分そうだったのだろう、という憶測ですが、 太古の昔、文明と呼べるものが無いぐらいの頃、人間は、 きっと、力が強い者、身体が大きい者、などが群れを牛耳っていたのではないか、と思います。 やがて、他の動物からは大きく秀でた、考える力、を持つ人間は、 威嚇したり、力を誇示したり、戦ったりしなくても、群れの治安を守りつつ、統治したり、序列を作る術として、通貨や貨幣制度を創り出しました。 この地球上の生きとし生けるもの、約140万種の中

          お金は必要だけど、一番大切なものじゃない

          孤独を恐れ誰かにしがみつくことで、もっと寂しくなっていないか

          「人は一人では生きて行けない」 この言葉は、レイモンド・チャンドラー作のハードボイルド小説に出てくる私立探偵”フィリップ・マーロウ”のセリフです。 色んな人が引用した言葉で、もはや一度も耳にしたことが無い人はいないのではないか、と思うぐらいです。 色んな人に、色んな解釈で、色んな使われ方をするうちに、言葉はひとり歩きする様になります。 使い方も、解釈も、十人十色、人それぞれで構わないと思います。 ただ、見渡すと、 親しい人が沢山いた方が良い、 家族や友達に囲まれる人生

          孤独を恐れ誰かにしがみつくことで、もっと寂しくなっていないか

          振り回す正義の後ろにある感情

          少し前のことになりますが、近所の気持ちの良い川べりを散歩がてらに歩いていた時、 スゴい形相で、怒声を上げる男性に遭遇しました。 私は、ただ歩いているだけで、見ず知らずの他人から、とがめられる様な覚えは無かったので、 私の後ろを歩く誰かがいて、正面から歩いて来るその男性は、後ろの誰かに向けて怒鳴っているものと思い、 知らん顔をして、すれ違おうとした、その瞬間、 あろうことか、彼は私の腕を捕まえ、「逃げるのか!」とひときわ大声で怒鳴りました。 逃げる必要性も、怒鳴られる

          振り回す正義の後ろにある感情

          自分が無い人の三つの特徴

          生きづらさを抱えている人で、心に確かな【自分】という意識が、不足なく育っている人はいません。 【自分】は無くなってしまうことはありませんが、未発達で、無いに等しい程に小さく、固く、縮こまって、 本来、心のど真ん中に居る筈なのに、心の隅っこに隠れる様にたたずんでいます。 【自分】が育っていない、ということは、 自分に価値を感じない、ということです。 価値に値する、【自分】が無いに等しいからです。 自分を好きになれません。 【自分】が無いに等しいのですから、好きになり様が

          自分が無い人の三つの特徴

          恐れず、惑わず、囲いの外に出てしまえ

          残酷な動物実験のお話しに、少し触れさせて頂きます。 飛び越える事が出来ない高さの柵で犬を囲い、その柵に犬が触れたらバチバチと電気が流れる仕掛けを作ったら犬はどうするか、という実験です。 犬は最初は柵を飛び越えて自由になろうと何度と無く飛び越えようとし、その度にバチバチと電気ショックを受けます。 度重なる挑戦が無駄であり、挑戦する度に耐え難い痛みを覚えることを悟った犬は、うずくまって挑戦することを諦めてしまいます。 犬が諦め切った後、柵を犬が楽々と越えることが出来る低い

          恐れず、惑わず、囲いの外に出てしまえ

          気づいた人は荒涼とした光景を初めて目にすることになる

          長く続いた、生きづらさ、を手放すことが出来た人は、尊い気づき、に辿り着いた人です。 気づきに辿り着いた、ということは、ぜんぶ腑に落ちた、ということです。 この世に生まれ落ちて、重い荷物を背負い、歩き、転んで膝小僧を擦りむいても、誰も抱き起こしてもくれず、誰も優しい眼差しを落としてくれなかったことの、ぜんぶが腑に落ちた、ということです。 擦りむいた膝が痛みを放って、悲しかったし、 誰も抱き起こしてもくれなかったから、寂しかったのに、 涙を零すことも、悲しさ、寂しさを表すこ

          気づいた人は荒涼とした光景を初めて目にすることになる

          心理的虐待をする親はフレネミーの究極形態

          近年、巷でちょくちょく耳にする様になったフレネミー(frenemy)とは、「friend」(友)と「enemy」(敵)を組み合わせた混成語で、「友を装う敵」といった意味です。 親しいフリをして陥れる人、を指します。 多くの、生きづらさ、を手放したい、と思っている人と、お話しさせて頂いた中で、私の肌感覚にはなりますが、 親から手を挙げられたことは一度も無く、受けた虐待は心理的虐待のみ、の人ほど、 生きづらさ、を手放す際には、一筋縄ではいかない、という印象を持っています。

          心理的虐待をする親はフレネミーの究極形態

          「他人の立ち場に立て」と怒る人は、他人の立ち場に立てているのか

          「アイツは相手の立ち場に立つって事が出来ないヤツだ」 と苛立つその人が、相手の立ち場に立てない人であることは少なく無い様に思います。 相手の立ち場に立つには、先ず自分と他人の感情を分ける境界線が明確であることが必要です。 感情の境界線は、心の中の確かな【自分】という意識の外郭線です。 心の中の【自分】は、幼少期に親から、感情を肯定的に受け容れられ、存在を尊重されること、によって育まれます。 【自分】の外郭線が、感情の境界線、ですから、 【自分】が育っていて、感情の境界

          「他人の立ち場に立て」と怒る人は、他人の立ち場に立てているのか