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私を辿る⑤距離〜紹介と思いの機織り〜

🌙夫との関係〜不登校を通して〜
娘の不登校に対して、夫は「甘えるな」という感じだった。だが、そういう本心を私にぶつけて来るわけでもない。見て見ぬふり、自分を抑え深く考えない、とりあえず私が一生懸命だからそれに従っておく。一方、吹っ切れた私は、娘が一人で家に居るより、何処か他に居場所があれば…と探し、小さな「自主学校」という場に通うようになった。そこも夫は反対。だからと言って、娘にとって何がベストなのか向き合うわけでもない。彼はストレスを抑えて受け入れてる風にやり過ごしていた。

そこでは娘は楽しそうだっけど、5年生の終わり頃、同じ年頃の子がいないことが物足りなくなって来たように見え、私から声をかけ、暗がりの空の下近所の畑の段差に腰掛け、二人で話合ったのを覚えている。娘はすっと納得した。公立の小学校へ戻ることに決まった。
何だかんだ言って、それは私にとって嬉しいことだった。なぜか?って…娘が広い世界へまた出られるから。…という格好いい見方も本当ではあるが、でも本当の本当の正直なところでは、「普通」に戻れるから、、だったかもしれない。私は「普通」って嫌い。その言葉の概念も「普通」に入ることも。でもやっぱり、「普通」という世間一般大多数の中にいるのは、安心なのだね…。また、一番嬉しかったのは、自分が娘をちゃんと見れていたんだ、と分かったこと。娘自身が学校に戻りたいと無意識レベルで感じ始めてたことを見て取り、一緒にパラシュートで着地できたような感覚が、感動だった。
そして後で、私は、夫の膝の上に跨り、夫に抱きついてわんわん泣きじゃくった…「寂しかった!帰って来れた!」と。私はそんな自分に、自分がずっと孤独でいたことを知った。そんなに寂しかったのか。夫はこっちを見てくれていなかった、私は独りぼっちで頑張っていたんだと感じた。だから、夫の元へ帰れたことも嬉しかったのだ。

こんなこともあったな。
娘が自主学校で過ごす2年3ヶ月の間、私が実家へ単身赴任していた時期があった。半年位だったか?…両親の会社が危機で、私が手伝いに行ったのだ。家庭を夫に任せ、2週に一度程度帰った。節約のため高速バスで通った。小5の娘に洗濯を教え、小3の息子に風呂掃除を頼んだ。(40年後の今、洗濯の仕方を私が書いた紙がまだ壁に貼ってある笑)娘が持って行くお弁当も、夫が作ってくれた。なんて協力的な夫だ!と思いませんか?でもその時すでに、私は内心、夫と距離を置けることにホッとしていた。
少し話は逸れるが、
その頃、実家では毎月家族会議をした。実家に住んでいた姉と、私と、東京の兄も毎月来て、両親と合わせて5人、兄が中心となって両親の会社のことを話し合っていた。
その生活がどう終わったのか忘れてしまったが、、距離を置いて、子供にも夫にも感謝の気持ちを持ち、新鮮な気持ちで家庭に戻れた(と思う)。その時は。その新鮮さは何時何処へ消えてしまったのだろう?

🌙夫との関係〜その先〜
後から思えば、夫の元へ帰ったような感覚は、どうやらそうでもなかったのかもしれない。
だって夫は、結局私の方を向いてはいなかったと思うから。薄っぺらいその場しのぎの平和のために、自分を抑え、私と向き合うことから逃げていたから。印象で言うと、彼は、私に対していつも横を向いていた…正面を向いてくれていなかった。
それも、私を大切にしたいからこそ、とは思うけど、私は、ぶつかってもいいから、彼の本当の心をいつも知りたかった。大切にしてもらってる感覚なんて無かった。私にとっては、逆だった。

そんなに長い時期を置かず、私の本心がムクムクと動き出した。
もう、夫と一緒に暮らせない。
それがはっきり見えると、私は一人家を出ることを考えた。娘が6年生で公立の学校に戻ってから一年も経っていない。子供が遊びに来られるように、家から歩いて20分程度の所に部屋を借りた。しがないパートの私が部屋を借りられたのは、たまたま良い出会いがあったことと、夫に保証人になってもらったから。理解のある旦那さん!でしょ!??私の意思が固いから、言いなりになるしかないのだろうけど💧

私好みの一軒家の平屋に似たその部屋を、私は「葡萄のゲラゲラ荘」と名付けた。外壁が独特な紫色、そして私が心からゲラゲラと笑う日を目指して。最低限の物だけ。電化製品は無い。ガス台と布団は買った。布団は、裏の布団屋で、予算2万円で、好きな生地を選んで作ってもらった。兎の柄にした。今でも、お気に入りの布団として使っている。久々の独り暮らしは、初めは寂しかった。子供がいない。でも、間もなく、薄情だけど快適になって来ちゃった笑。全てが自分のペースでできるから。自分のことだけ考えていれば良いから。お米を炊いた小さな土鍋や調理後のフライパンを抱いて暖を取った。何も無い家では、お米、出汁の無い醤油汁、お肉、、全てがいつもより美味しく感じた。置いてある物も、一つ一つが活きている、その持ち味が際立っていた。あの感覚を忘れたくなかったけど、家族とまた暮らすようになって、やはりいつしか、日常の煩雑さに紛れて忘れてしまった。
子供に何かあった時に側にいない不安、やるせなさはあった。
しかし、あの生活は、自分史に残る幸せな生活だった。いつかまた独り暮らしをする時、やはり最低限の物、自分の好きな物だけを置く生活をしたいと思っている。

数ヶ月独り暮らしをして、私は離婚を決意した。
二人のこれまでを総括するように、二人の思い出の場所に行って真剣にその意志を伝えようと思い、夫を誘って、学生時代、二人で語った河原へ電車で1時間半かけて出掛けた。不思議なことに、デートのようだった。前だったら、手繋いでたよな…と思った。

そこで、驚きのことが起こった。
私が今までずっと夫に訴えて来たこと、訴えても訴えても全く通じなかったことを、あたかも元々自分の考え方だったかのように、夫が語り始めた。
訴えて来たこととは …自分を大切にして、本音で向き合って欲しい。抑えるのは優しさでも何でもなくて、寧ろ意地悪な形になって横からニュッと出て来るし、ストレスも溜まる。ストレスが溜まるとキレたりして良いことない。ケンカになってもいいから、本音を知りたい。抑えることが、本当に自分の喜びなら良いけれど… のようなこと。
そう!そう!そう!そういうことだよ!!!
ビックリした。
離婚の意思を伝える気100%だったが、靴下をひっくり返すように、宇宙全体が裏返しになった。
…あら…どうしよう…
というわけで、私達は、仲直りしてしまった。
人って、変わるんだ…。
子供達に電話をかけ、帰りに待ち合わせをして、家族全員で御祝いに寿司を食べに行った。子供達はビックリしていたが、真ん中の息子は「家が二つの方が楽しかった」と呟き、笑った。
かくして、別居はわりと早くに集結した。
快適な独り暮らしから抜けるのは残念だったが…まぁ家庭が蘇るのなら文句なしにそっちへ走った。
その部屋を最後に引き払う時、何も無い部屋で、自分に手紙を書いた。
「ここが、私が心からゲラゲラ笑う日への出発点になる」と。

続く

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