ブログ_190615

こしのりょうは、なぜ医療漫画を描くのか?

 漫画家・こしのりょうさんの個展が、昨日終わった。とても気さくで、前向きな漫画家さん。個展を見に行った際にも、こしのさんは、来ている人みんなに対して、一人の人対人として接していた。相手に興味を持って、人懐っこく、話を聞く。とても素敵な人だ。

 こしのりょうは、医療漫画を、繰り返し描く。『Ns’あおい』『町医者ジャンボ!!』『Dr.アシュラ』。そしてそれは、多くの人に刺さっている(『Ns’あおい』も『町医者ジャンボ!!』も、テレビドラマ化されている)。

 一つのテーマについて描き続けて、そしてそれが多くの人に受け入れられている。それはたぶん、彼の漫画が、一時の流行ではなく、人の普遍的な何かを描いているからだ。では、彼の漫画は、何を描いているのか。『Ns’あおい』を読み解くことで、少し考えてみた。

(ネタバレを含んでいます。でも、この文章を読んでからでも(願わくば読んだらさらに)、おもしろい漫画です。)

*     *     *

■多様な価値化、多様な「正しさ」を許容する物語

 『Ns’あおい』は、三年目の看護師・美空あおいが、ある事件がきっかけで、あかね市民病院に転勤してくるところから始まる。あおいの指導看護師・小峰は、「あたしの患者にさわんないで」とあおいを突き放すが、ある患者の処置をきっかけにして、二人は仲を深める。そして、小峰は言う。「この病院ヤバイから」。

 この病院の看護師、医者には、くせ者がそろっている。腕はいいのに、金払いのいい大物患者しか診ない医者・田所。アンケートで部下たちに「家族計画」を聞いてしまう、自他に厳しいオーバーワーク気味の看護師・大月主任。医師一年目、超優柔不断で自信なさげな江藤。他の医師たちもセクハラ・パワハラ上等、傲慢な人材が揃っている。看護師たちも、それはもう一癖も二癖もある。「ヤバイ病院」だ。

 印象的なのは、これらのキャラが登場するシーンでの、顔のアップのコマだ。冒頭であおいが面談する総師長は、鬼のような形相で「これ以上問題を起こさないでちょうだい」と言う(あおいが転勤してくるきっかけとなった事件を指している)し、あおいの指導看護師・小峰が「あたしの患者にさわんないで」という表情に対しても、あおいは「ゾクッ」としている。

 明らかに、「悪い」し「怖い」顔だ。

 でも、物語は、その一人ひとりの事情、物語を描く。小峰があおいに患者を触らせないのは、過去に指導していた看護師との間に問題が起こったことがあったからだし、大月主任は人手不足の中ギリギリでタスクを回しており、自分が最も働いている。あおい視点で「悪い」「怖い」表情が、次第にその表情の裏にあるものが分かることで、事情の上に巨勢やひねくれが乗っかった表情だと分かってくる。描かれる表情も、そう変化していく。

 このことは、何を描いているのか。

 あおいは、あかね病院に来る前、別の病院の救急救命センターで働いていた。ここでは、(一人の医師以外)みんなが「患者の命を救う」という一つの目標に向かって、必死に働いていた。当時の様子が、たまに回想として描かれる。そこでは、あおいも、仕事に没頭している。できている。全員が一つの価値観のもとで働いているから、そうできるのだ。

 しかしあかね病院の内科では、医師も看護師も、ばらばらな方向を向いている。多様な価値観の下で働いている。

 あおいは、みんなが同じ方向を向いていた職場から、多様な価値観が混在する職場に来たのだった。

 物語は、その多様な価値観を、一つずつ、丁寧に描く。はじめのあおいには、恐ろしく映っていた表情にも、物語があることを描く。『Ns’あおい』は、多様な価値観、様々な正しさを許容する。


■否定される「正しさ」

 でも、多様な価値観、様々な正しさを描く物語の中で、否定されている「正しさ」がある。

 それは、権力と、それを象徴する金だ。

 パン屋を営んでいた入院患者は、金のためにそのパン屋を売った息子夫婦に絶望しかけ、病院での交流を通して、息子はそのことを悔いる。進行性胃がんを患った建設会社社長は、金で看護師をかしずかせるが、自らの病が治らないと分かると、手術をせずに自分の生きがいのために生きるようになる。

 そして、事務長が病院の維持・存続、そしてその成長のために、金のかかる改革を渋り、事件をもみ消すことは、明らかに「悪者」的に描かれ、これにあおいは真っ向から反発する。

 多様な正しさを許容する物語が、金と、それが象徴する権力を否定している。

 では、この物語は、その一つの正しさを否定することで、何を描いているのか?


■「真実の瞬間」を描く物語

 「金」と「権力」とは、この資本主義の社会の下で、パワーを与えられたものだ。社会を統べる政府=権力と、それが信用を担保する、金。これらの「正しさ」を規定しているのは、「法」だ。

 社会学者の宮台真司さんは、社会的な正しさ=システム、法に従うことを、真っ向から否定する。

 自分の正しさを、社会システムや法に依存して、その正しさに寄って誰かを攻撃する人々を、「言葉の自動機械」=システム・法を無条件に受け入れ再生産する存在として断罪する。ルールに従うだけの人間など、クズだ、と言う。

 宮台さんが重要視しているのは、自らの価値観に従い、仲間のために動けるか。システム・法に縛られず、つまりそれを犯し、自己犠牲を払って、仲間を救えるか。ということだ。そこに、人間の価値が表れる、と。

 ある人がそう動けるかは、それが試される瞬間が来るまで、絶対にわからない、という。とても信頼され、友人も多い人間が、脅威を前に誰かを犠牲にして逃げだすかもしれない。憶病で逃げてばかりいる人間が、その瞬間に、誰かを救うために動くかもしれない。その、人が試される瞬間を、「真実の瞬間」「the moments of truth」という。

 ある映画について、宮台さんが解説していた。『15時17分、パリ行き』。ヨーロッパ旅行中のアメリカ人三人が、パリ行きの列車の中で、テロリストに遭遇するという、事実に基づいた映画だ。
 テロリストが、銃を、ナイフを持って現れたとき、体がどう動くか。死ぬかもしれないときに、どのような反応をするか。まさしく、「真実の瞬間」だ。彼らは、テロリストに、丸腰で突っ込む。壮絶な戦いの末、テロ犯を拘束する。

 少し話が逸れた。『Ns’あおい』に戻ろう。あおいは、「ある事件」がきっかけで、救急救命センターからあかね市民病院に転勤してきた。その事件とは、どのようなものだったか。

 ある患者の搬送中、容体が悪化し、医師にしか許されていない処置である気管挿管が必要になる。しかし、救急車内に医師はいない。悩んだ末に、あおいは法を犯し、自らの手で気管挿管を行う。

 救命センターの仲間は、救急車の病院到着後に、気管挿管を行ったことにし、あおいをかばう。ただ一人の医師を除いて。その医師は、あおいに恨みを持っており、この出来事を、センター外に漏らす。この事件は問題化され、あおいは、救命センターからあかね市民病院に転勤になる。

 自分が動かなければ、患者は救えない。法を犯さなければ、患者の命がない。その瞬間、人は、どう動くのか。これはまさしく、真実の瞬間、the moments of truthである。

 上記のあおいの事件は、一つの物語の核心だ。この瞬間が、一つの、テーマだろう。

 このテーマが、物語では、小さな規模となって繰り返される。法・権力を象徴する、金。金のために動く=権力・システムを無条件に受け入れ再生産するのか。それとも、金の象徴する権力・法にあらがい、自己犠牲の末に人間の価値を表すのか。

 医療現場は、「命」を扱う現場だ。きっと、この「真実の瞬間」が、様々な場面で表れる。

 漫画家・こしのりょうが、医療漫画を描くのは、この「真実の瞬間」を一つのテーマとしているからではないか。その瞬間、人はどうするのか。法、ルールの自動翻訳機となって、思考を停止し動かされるのか。それとも、自らの価値観の元、ルールに縛られず、犯し、命のために動くのか。

 きっと、この「真実の瞬間」を描いているから、こしのりょうの漫画は、多くの人に刺さるのだ。

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 そして今、こしのりょうさんは『銀行渉外担当 竹中治夫 ~『金融腐蝕列島』より~』という銀行漫画を描いている。

 金、の物語だ。

「命」という、「真実の瞬間」に人間の価値が表れる一極に対して、その対極にある、「金」=権力、法、システム。

 きっと、描いているテーマは同じなのだ。そのテーマを、どちらの極から見ているのか。

 こしのりょうさんは、「真実の瞬間」を描く。その、選択の瞬間を。

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