私にとってのtwitter

 先日twitterを開いたら、自分で入れてもいないのになぜか「#脱ツイ廃」で検索がかかっていた。多分人のtweetの中にある言葉を私がタッチしてしまったのだと思うけれど。始めて「ツイ廃」という言葉を目にした。
え、私ツイ廃なのか。

 私がtwitterを始めたことには明確な理由がある。元々匿名性を売りにしているものなんて信じないし、無責任な言葉ばかりなんだろう、とtwitterを開いたこともなかった。「知りたいこと」が出来るまでは。

 私は民間で教室を立ち上げている教育者だ。10年以上教育に携わる中で、小学校に数年間勤務した経験もある。そこで漠然と学校と私が日常過ごしている社会の文化の違いみたいなものを感じていた。
更に我が子の小学校の先生のことが気になりだした。子どもから聞いている限りでは人の扱いがひどいな、と思っていたのだが実際会って話してみると、本人がかなり疲弊しているのがわかった。教育どころではない。
更にPTAとして学校に携わって、何かと斬新な意見も出してみてはいたのだが、ことごとく却下。そして校長先生があらかじめ書いたシナリオに保護者も合わせていく、という流れに「学校」に対する不信感、不思議な気持ちを感じていた。

 決定的な出来事は、我が子に対する中学校の先生の度重なる圧力や暴言で我が子が精神的に参ってしまったことだ。
それまでのぼんやりとした学校への不信感が、ハッキリとした。それと同時に小学校の疲れた先生を思い出した。これは先生に言っても無理なレベルのことだ。先生も疲れている。もっと上にあげなくちゃ。

 それまでは子どもの面談などを使って先生の生の声を聞いていたが、ラチがあかない、と思い匿名性の高い場所なら現場の生の声が聞けるだろう、と飛び込んだのがtwitterの世界だった。

 最初にアカウントを作った日に「死にたい」「学校に行く道で事故に遭えば楽になれる」という言葉を幾つも目にした。やっぱり。
思っていた以上に疲弊した先生方のtweetは見ていて心が傷み、吐き気を覚える程に恐ろしい気持ちになった。こんな状況で働き続けている人がいること、そしてそんな方々のいっぱいいっぱいの中に子どもたちがいること。

 いろいろな声が聞きたくて、フォローするのは不登校関連、先生関連に絞った。そこで皮肉にも結びついてくるのは、不登校と呼ばれる子どもたちの保護者の主張が、苦しむ先生方の声。現場ではどうしようも変えられないことを嘆く先生方、その変わらない場所に居心地の悪さを覚える子どもたち。
進む時代の間で身動きが取れなくなっている日本の教育の現場が見えてきた。

 話は戻って、私がツイ廃かという疑問だが、私がtwitterに書き込むのは呼吸と似ている。大量のインプットがあり、それが行き所なく私の中に留まると苦しくなってしまうから、一旦吐き出す。その呼吸に反応してくださる方々と語らう中で、更に自分の中での疑問や理解が良い形で自分に収まってくる。
 これをリアルの世界でしようと思うと、こんな話をおおっぴらにしてくれる人は少ない。「詳しいね」「あんまりそこまで深く考えたことがない」「どうせ変わらない」と、自分がただの考え過ぎなのかと思わされる程にみんながそこを避けて通ろうとしているのがわかる。

 私は心が傷んで吐きそうになっても、今twitterを使って呼吸することを止めないでいようと思う。この小さな私一人、出来ることの限りはあるだろう。でも知って、疑問を持って、人と語らって、前に進むくらいなら出来る。「人を大切にする」ということを自分の軸に置いて、子どもたちは元より、その保護者や先生たちが笑って過ごせるには、どうしたら良いのかを考えるくらいはしていたいと思う。
 少しずつ気の知れた仲間と一緒に活動を始めた。私の専門、英語教育の切り口から「大人に寄り添う」活動。笑顔の大人が増えたら、子どもたちはもっと笑っていられる。そう信じて。

 twitterはそんな私にいつも自分の軸を確認させてくれる、そして私を呼吸困難から救ってくれる、大切なツールなのだ。

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