努力のない世界

努力してこなかった人生でした。
でも後悔はしていない。

「努力」を辞書で引いてみると、「目標を掲げ、到達するために邁進すること」とあります。人生の目標を立ててそれに向けて粉骨砕身し、何かを積み上げることが努力の定義。

そう考えてみると私は努力をしたことがありません。
高校は普通にしていたら受かりました。大学は社会人枠だったのでほぼ無勉です。会社勤めの際は散々でしたが、独立は上手くいきました。理由としては自分に合っている仕事を偶然、運良く見つけたからです。

未来を見据える力があるわけではありません。クラウドソーシングの黎明期という、たまたまやってきた価値観の転換が起きたときに、たまたま無職だったので時間を投入しただけです。

思えば、今だって朝は気の済むまで寝て、美味しいモノを食べ、好きなだけ運動して、遊び回っています。もちろん仕事もしていますが、疲れはするものの努力をしているわけではないのです。

今日、こんなnoteがまわってきました。

「努力せよ。さもないと成長できないぞ」
「努力せよ。さもないと一流の職業人になれないぞ」
「努力せよ。さもないと幸せな人生を歩めないぞ」

とあります。そこで考えてみると私は努力をしたことがないのでした。謙虚ぶってるわけではありません。努力っぽいものを避けてきたというか、本当にできないのです。受験は勝手にパスした、会社勤めは努力しないので弾かれた、そして独立は努力しなくともできる事業スコープを定めてそこに身を置いた。ただ、それだけ。

受験、資格、TOIECなどの努力っぽいモノもすべて避けてきたばかりか、社会人に必要とされる人脈、実績、中期計画、マネジメント、ソーシング(案件発掘)もすべて年次を重ねただけで勝手に手に入った感じがあります。

実績はまず、私はライター2年目でヤフトピに入ったのですが、それも好き勝手書いただけです。そしてそうしたまぐれ当たりをくり返すうちに人脈は勝手にでき、マネジメントもまあ微妙ですが有利な立場を利用しているだけ。ソーシングも向こうから良案件がやってきます。中期計画は微妙ですね、計画力はないかもしれない。ほら努力しないから手に入っていない。でも成り行きでよくないか?と思う自分もいます。

ブログも商業文筆も最初の1本目から褒められ私としては自然に書けたので努力っぽいことはしていません。キャリアとしてWebライター→ディレクター→Web制作→UIUXデザインと進んできていますが、どれも努力なしでできました。できる限り単価が高くて参入障壁が高そうな分野へ流れて来たのみです。

別にディレクターとして何もしなくとも一流だと言いたいわけではなく。たしかに案件はまわせなかったですがいつのまにかうまく流れるようにはなりました。そこで何か努力をしたかと言われると、ただ案件がくり返しやってきたので経験値が上がり、その結果自然に力(っぽいもの)がついたのかなと。

「成長できないぞ」「一流の職業人になれないぞ」「幸せな人生を歩めないぞ」といわれたら、たしかにその通りです。私は成長してないし、一流でもないし、幸せでもない。こんな人生になりたくなければ努力をすべきなのです。

机に向かって数式を解くなんてできなかったし、朝も定刻に起きられないし、今もやるっていったことをすぐ忘れます。その割には実績だけはあるので相対的にみると若い頃よりは成長してるし、若い頃よりは一流に近いし、若い頃よりはマシな人生です。

私は目標を定めて日々を積み重ねることができず、その代わり向いてる何かを見つけるまで同じ位置でウロウロ、ウロウロするタイプなのかもしれません。努力がコツコツ距離を伸ばすことだとすれば、私は35才頃までウロウロし、やっと自分にあう仕事を見つけてその方角に向かって大砲のようにあまっていたエネルギーを発射した、そんなイメージ。

だから人から疎まれるのもわかります。目標に向けて努力する姿は美しいですし、努力もせずダラダラ過ごす姿は醜いです。努力をしない代償は社会からの拒絶。

しかし私は代わりに暇なのでエネルギーがあまっています。人を愛する愛情の深さ、そして仕事への情熱も枯れていないと思っています。努力する才能の代わりに私が持ち得たモノといえば、その熱量でしょうか。


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