原典を読み込むことによる発見|大学院学びレポート②

こんにちは。秦ショウケンです。北海道にあるお寺に生まれ、今はスタートアップでメンタルケアアプリの開発に携わりながら、龍谷大学大学院で浄土真宗の勉強をしています。

せっかくなので学んだことや感じたことを新鮮なうちに書き残しています。毎週末に更新する予定です。
といいつつ、二週ほど空いてしまいました。

今週のハイライト|初めての発表

大学院生活の第二〜三週目でした。四週目に差し掛かったところで、現在GWを挟んで小休憩です。
わかってはいたものの、平日は怒涛のように進んでいき、予習復習で精一杯。学ぶほどに知らないことが出てきて、新しい本が積読されていくばかりです。せめてブログだけは毎週書きたい。。。

さて、今週のハイライトは、輪読の授業で発表の担当範囲が回ってきたこと。
文献研究という科目で、大無量寿経という浄土真宗の要となる聖典のなかで、教義的にあまり注目されていない部分を深く読んでいくという授業です。

浄土真宗は、鎌倉時代に親鸞さんが仏教を学んでいく中で開いた宗派ですが、その当時の仏教経典はというと、ほとんど中国から渡ってきた漢文のものなので、親鸞さんの書物も大体は漢文が引用されています。つまり、現代における浄土真宗の研究も、漢文の書物がベースになるのがほとんどです。

そういうわけで、今回の発表資料も、漢文白文→訓読文→現代語訳 を用意し、意味が取れない漢字は漢和辞典を引きながら現代語訳を作っていき、考察を深めるという内容でした。
まずその時点で大変なのですが、短い文章を深く読んでいくことは、学びの多い作業だと思いました。普通の現代語に訳された本なら20秒くらいで一気に読めてしまうようなところを、白文から漢字を一つ一つを調べながら読み解いていくと、今まで気づかなかったニュアンスを感じ取ることができます。
例えば以下の箇所。

白文:
応時無量尊 動容発欣笑 口出無数光 徧照十方国

現代語:そのとき無量寿仏はにっこりとほほえみを顔に浮かべ、口から無数の光を放ってひろくすべての国々をお照らしになった。

これは阿弥陀仏が菩薩に教えを乞われて、これから悟りの教えを説こうとするシーンなのですが、その際に「欣笑」という笑みを浮かべる描写があります。
「これはどういう種類の笑顔なんだろう?」と漢和辞典を引いてみると、「欣」には、「喜ぶ、嬉しく思う」という意味がありました。
つまり「欣笑」とは、「喜び嬉しい気持ちでほほえむ」というような笑顔であることがわかりました。

これを踏まえると、仏が仏法を説くときの気持ちに「喜び嬉しくてほほえむ」というニュアンスを読み取ることができます。
これまで僕は「仏が教えを説く」ということには「救い」とか「慈悲」みたいなイメージを持っていたのですが、この箇所を読むと、なんというか、「おお、俺の話聞いてくれんの!めっちゃ嬉しいわ!」みたいなイメージを新たに持つことができました。

これを調べていて、なんかわかるような気がしました。自分がいいと思ってるものに興味持ってもらえて、色々教えて!って言われるのめっちゃ嬉しいですよね。そういう気持ちに通ずるところがあるんじゃないかなーと。
今の僕なら、友達に、仏教やコーチングに興味持ってもらえると「欣笑」しちゃうなーと思いました。

実は親鸞さんも、
「親鸞は弟子を一人も持たず候」
と語って師弟関係を嫌っていたのですが、その心は、縦の関係ではなく横の関係として、ともにお念仏の仏道を歩んでいく同行・同朋として門徒さんと親しまれたのだといいます。
これももしかして、「欣笑」的な「喜び嬉しい気持ち」を持って接していたということだったのかなーと、ちょっとほっこり嬉しい気持ちになりました。

とそんな感じで、発表資料を作っていると、普通に読んでてもまず辿り着かないような深さまで強制的に潜ることになります。
こういう勉強の仕方は一人ではできないよなあと思い、大学院の良さを感じる機会になりました。

ちなみにスルーしましたが、

白文:
応時無量尊 動容発欣笑 口出無数光 徧照十方国

現代語:そのとき無量寿仏はにっこりとほほえみを顔に浮かべ、口から無数の光を放ってひろくすべての国々をお照らしになる。

「口から無数の光を放ってひろくすべての国々をお照らしになる」
という箇所。ここはクセが強いですね。
このようなSFチックな場面は宗教的な心がない僕にはぱっと見「何をいうとんねん…」としか思えませんが、ここにもちゃんと意味があり、他文献を参照したり、神変という概念、経典成立の時代的背景、翻訳者の意図などを踏まえて多角的に検討していくと、合理的な脳みそでも案外受け止められるようになります。
合理的世界と宗教的世界は断絶された別世界ではなく、案外繋がったところにあるのかな〜とも思ったりしました。


そのほかの印象に残ったこと

宗教の意義

この週は宗教とは?みたいなことに言及する時間が多く、特に印象に残った部分を転記しておきます。


宗教とは人間だけにある精神活動の大事なものであり、しかも人間の生 存、存在、いのちの根本にかかわることであると思います。 人間は非常に 不安定なものであり、何かちょっと周囲の条件が変わるとフラフラとなっ てしまいます。そういう気持ちを解決するというか、受け止めて導いていく、それ が宗教の主たる役割といえるのではないでしょうか。

宗教は人間だけにある高度な精神活動です。 人間は外界の変化や自身の老病死をただ受動的に受け入れるだけではなく、地位や名誉やお金などさまざまな欲望にとらわれ、そのためにかえって悩みや苦しみ、不安をかかえています。 宗教はそのような欲望をコントロールすることを教え、より安定し、 充実した生き方へと導くものです。

世の中、そして私自身にもたくさんの問題があります。 しかし、問題があっても気付かなかったり、覆い隠してしまったり、先のばしにして考えないこともあります。 そんな問題に気付いたり解決しようと努めたりするところに、よろこび、幸せを感じることもできるでしょう。 信仰を持つと、 気付かなかったところに気付いていける世界があります。
また、過去を振り返り、その意味を考え、現在から将来に生かすことは大切だと思います。宗教はそのときの鏡のような役割を果たすでしょう。

大谷光真 『世の中安穏なれ 現代社会と仏教』中央公論社


宗教と差別

昨日は同志社大学でキリスト教の研究をしている小原教授の講義でした。宗教と倫理というテーマで、キリスト教における差別的内容についての紹介がありました。
キリスト教に限らず宗教は、長い歴史の中で家父長制や身分制度など社会の支配的な規範の影響を受ける中で、様々な差別を容認・正当化してきた歴史があるといいます。

聖典に書かれた内容は、たとえ現代人全員が差別的だ、不適切だと考えたとしても簡単に変えることはできません。そのため、解釈や翻訳の過程で読み替えていくしかないのですが、そのプロセスの中でも、色々な捉え方・主張の人がいるので、なかなか意見はまとまっていかないといいます。

「仏教とジェンダー」を専門とされている先生の講義も取っているのですが、そこでも同じようなことが言われていました。
ただ、聖典を現代社会の視座を持って読み解き、エビデンスを蓄積して検証していくことは、こうした議論の足場を作るために重要なことだと思いました。

日本は宗教が国民の生活に深くは根ざしていないので、宗教と差別、と言われてもピンとこない部分も多いですが、アメリカでは宗教が何を言っているかがそのまま国民の価値観や差別の助長に影響するそうです。特に同性愛の問題は、米国キリスト教における最大の問題の一つであり、容認するかしないかで今でも意見が大きく二分されているそうです。

宗教は、人を大きく支える力があって、人を善い方向に向かわせる力がある反面、自分に都合の良い考えを正当化させてしまう側面もあるものなのだと思いました。


他にも色々発見や驚きはありましたが、今週はこんなところにします。書きたいネタはたくさん溢れてくるので、できるだけ毎週かけるようにしよーう!


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