見出し画像

矛盾の解がわかるとき

昔から、推理小説が大好きだった。刑事もの、探偵もの、サイコキラーによる連続殺人・・・とにかく人が死に、謎を解くお話が大好きだ。

見に行く映画も笑ってしまうくらい偏っていて、基準は事件が起きるか起きないか。事件の起きない映画をわざわざお金を出してまで見に行く気持ちが、よくわからないほど。必然的にミステリーやサスペンスあたりばかりを観に行く。

出産後、あまりに残酷だったり拷問的なシーンへは耐性がなくなってしまい、がっつりとしたホラーは見れなくなった。スプラッタホラーとか、もう無理だな。でもやっぱりいまだに、ミステリーやサスペンスは大好きだ。

一方で私は、プロレスやボクシングやK-1と言った格闘技がとても苦手だ。CMで少し試合のシーンが映し出されるだけで恐ろしくなり、目を背ける。

その理由は、首の骨が折れてしまうかもしれない。失明してしまうかもしれない。脳が損傷がしてしまうかもしれない。最悪、死んでしまうかもしれない。そんな想像が次から次へとわいてきて、いたたまれなくなるから。

だから、プロレスなどに熱狂できる人の気持ちが全くわからない。戦っている人にも家族がいるだろうに、どんな不安な気持ちで試合を見守っているのか・・・考えただけで、胸が押しつぶされそうになる。胸がかきむしられ、いてもたってもいられなくなる。

大いなる矛盾の答え

人がじゃんじゃん死んでいく映画や小説、漫画は大好きなのに、格闘技はまるっきり苦手。この大いなる矛盾はなんなのか?

そんな自分が不思議だった。ちょっと不気味だった。

でも最近、答えが出た。

それは、実際に痛みを感じている人がいるか、いないかだ。

つまり、痛みがフィクションなのか、ノンフィクションか。

小説や映画、漫画の中の殺人はあくまでも作品で、実際に血を流している人もいなければ、苦しんでいる人もいない。映像では安全に充分配慮された形で撮影が行われ、小道具やCGなどを駆使しながら表現される。

けれど、格闘技は現に目の前の人が確かに痛いし苦しいのだ

このとても大きいが、とてもシンプルな違い。今まで気づかなかった。人が痛い思いをしたり、苦しんだり、死ぬのはあくまでもフィクションの中であってほしい。

こう書くと至極当たり前のことだが、矛盾の答えに気付かなかった頃の私は、人が死ぬ作品は自ら見に行くのに、一方で格闘技を嫌悪する自分はどういう理屈なんだろう?と言い知れぬモヤモヤを感じていた。

違ったんだよ。全然違った。痛い思いをする人が存在してほしくないと、強く願っていたんだ。そんな自分が急に「まとも」に感じて嬉しかった。

小さなころから、人の死ぬ作品ばかり触れている自分が、どこかおかしいのかもしれないと思ってきたから。

うん、よかったよかった。人が痛い思いをするのは嫌。自分も嫌。大切な人だったらさらに嫌。そうちゃんと思えてたんだな。うん。

これからも作品としての痛みを愛でていく

今回の気付きは、ミステリーやサスペンスが好きな自分自身に自信をくれた。

作品の中、ノンフィクションだからこその、痛みを受け入れられているのだと気付けて本当によかった。

これからも堂々とたくさんの推理小説に出会い、映画や漫画にハマって生きていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?